Xジャパンのみなさんとセッションライブ。YOSHIKIさんがかなり早い段階からドラムを破壊し始める。吉村さんのようでいて、どっちかといえば佐賀の友達のひろかっちゃんのような人物もステージにはいる。うすうす気付いてはいたけれど、ここに書いていることを「日記」と呼ぶのは適切ではない。必ずしもその日に起きたことを書いているわけではないし、その日に思ったことですらない場合もある。でもブログっていう呼び方がなんかどうやろか、というだけの理由による。今日は3月のとあるプロジェクトのための下見。先週の土曜日は、JR大阪駅と大丸のあいだあたりにある砂時計のところで、待ち人を待つ人に待ち人がやってくるのを待つ。でも、待ち人を待つ人に待ち人がやってくる前に私のタイムリミットがくる。今日は2月の催し物のお手伝いの打ち合わせでKAVCにも。昨日はみつ君とカフェをはしごし最後はケンタッキー。今日は打ち合わせ後、HさんとIとまつむら。唐揚げと焼酎がなかなかこない。忙しい。いわば美術展示のプロであるHさんがいるのにも関わらず、いろいろと生意気なことを言ってしまったような気もする。私が、自分でなにかやること、ややこしい言い方だ、つまりパフォーマンスとかなんらかの作品とかを考えるとき、Hさんの視点を取り込ませてもらっている。正確には、Hさんだったらこう言うかもしれない、というような。そうそう、去年の9月14日の演奏会の写真をアップしています。直嶋君、Sさん、ありがとうございます。→http://www8.ocn.ne.jp/~fhs/0914_nhto_img.htm このなかの『直嶋岳史 「Objective 4/5」 を演奏中の小田』はおそらく「rest」中かと思われます。ヤフーのブログ検索で「写真家」と検索してここに辿り着いた方がいらっしゃいますが、「写真家」のひとこと検索ってすごいなあというか、それじゃああまりに広すぎてなにも写真家について分からないかもしれません。といっても、アリストテレスの「質料と形相」については、それがなんで対概念じゃないといけないのかがちょっとまだ分からなくて、というか、対にしてしまうとどちらかがどちらかの基礎である、とか、どちらかがどちらかに先行している、とか考えがちになるわけで、質料と形相についてはそういう考えはどこかおかしいわけで、わけで、なんというか、質料は形相に左右されるし形相は質料に左右されるしで、つまり、その質料ならではの形相というものがあるし、その形相ならではの質料というものもあるしで、どちらが先行とか基礎とかじゃない。とか思っていたのだけれど、これは自分の思いこみに自分で反対するみたいなところがあって、自分の思いこみ、つまり対概念という「対」の関係を水平のものとして「のみ」捉えること、への違和感であって、アリストテレス自身はそんなつもりじゃないんだろうなあ。対の関係それ自体が、別の対の関係の1項になることもあるわけで、それを考えれば、固定された水平のものとして「のみ」考えるのはおかしい。ということを、「質料と形相」でググって出てきた3番目のページを見て思った。→http://blog.hix05.com/blog/2007/12/post_476.html とくに、なんらかの質料となんらかの形相が結び付いてあるものが出来上がったとして、そして、そのあるものもまたなにかの質料になることもあるわけで、このとき最初のものの形相は、次のものの質料になっている、という箇所が役に立ちました。私はこの連鎖が同一のものでも起きると思っているフシがある。「作品」の鑑賞、という行為がこれに近いんじゃないかと思っていて、たとえば、なんらかの質料となんらかの形相によって生成された「作品」があるとして、それを鑑賞するとき、鑑賞者のなかでは作品の形相を質料として、その質料に鑑賞を通じて自分独自の形相を与え、まったく別の「作品」を、精神のなかで生成している。んん、分かりにくい。作品という「質料+形相」による生成現象が、鑑賞者の鑑賞という「質料+形相」による生成現象の「質料」として、まるごと「代入」される、ということか。だから、作者にとっての「作品A」とそれを鑑賞する鑑賞者にとっての「作品A」がまったく違う、っていうことは当たり前で、もし同じであるならば、作者と鑑賞者はまったくの同一人物になる。ここでいう同一人物は刻一刻と変化することを「しない」人物であるので、死んだ人間である、ということでもある。言い換えると、作品をつくっているときの作者と、自分のつくった作品をみているときの作者ですら、厳密には「同じ」ではない。鑑賞者によって作品が変化することと作品によって鑑賞者が変化することを考慮しないと、作品と鑑賞者の「死んだ」関係しか、存在しないことになる。不変の作品と不変の人間の関係。「人それぞれ」とか言うまでもなく、つまり解釈や趣味や感覚が違うとか言うまえに、作者にとっての「作品A」とそれを鑑賞する鑑賞者にとっての「作品A」は、現象としてまず原理的に違う。鑑賞の内容に関わらず、そもそも違う。つくる側もみる側もこれを前提にして、つくる/みる行為をおこなえば、もっと楽しいと思うのにと思うのに。いま思いがけず、「思うのに」を二個繋げると変な効果が生まれることに気付いて、私が、(誰かが)「もっと楽しいと思うのにと思うのに」と書くとき、その誰かはすでに(こうすると)楽しいと思っていて、そう思ってない他の誰かについて「(こうすると)もっと楽しいと思うのに」と思っていることになる。フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」が終わりそう。佐々木健一「美学への招待」は帰りの電車で読み終える。8章やったかな、藝術における「あたらしさ」への志向を相対化する道筋が見えた気がする。最初から再読してみようか。小田中直樹「ライブ・経済学の歴史」も読み終わりそう。3日くらい前から奥野正寛「ミクロ経済学入門」を再開。ミクロ経済学が「労働の供給」についてどう分析しているか、のところですこしつまずき気味。ここを乗り切れば、企業のはなし。労働の供給、失業、つながりで、ケインズを読みたくもなってきた。今週土曜はこれがあります。なにをしようか考え中。誰にどんなはたらきかけをしようか。すくなくとも、自分の「行為」で誰かの「行為」について言及するなんてことはしない。

合奏の会/第17回公演「SOLO no BAN 2」
2009年1月31日(土)
夕方5時くらいから
場所:谷六・ポコペンにて http://www.poco-pen.net/
お金:千円から(ドリンク別 大根おろし付き)


出演:
・あずミンガス:コントラバス (薄花葉っぱ)
・江崎將史:トランペット(使わないかもしれない) (popo,HOSE,アキビンオオケストラ)
・小田寛一郎:はたらきかけ
・にしもとひろこ:うたとギター (たゆたう)
・丸尾丸子:うたとアコーデオン (コオセキラヂヲ)
・みやけをしんいち:ソプラノサックスとか (melagukan)
・山路智恵子:小太鼓 (yumbo from仙台)


http://www012.upp.so-net.ne.jp/homupezi/