なんかすげー眠い。あと右手の人差し指のさきっぽ、指の腹のあたりが妙にかゆい。蚊に刺されたかもしれない。今日はちょいと神戸アートビレッジセンターへお手伝いに行って、ひさしぶりにHさんに会う。手伝いはIさんの。そのこととはそんなに関係ないが、やっぱり私はそんなにいわゆる芸術には関心がない、たぶん。なにか面白い作家や作品がないか常にアンテナを張り巡らしているわけではないし、自分の足の届かない範囲の情報にまでアクセスしようとは思わないので、やっぱりそんなに関心というか情熱がないのだと思う。芸術というからには音楽も同じ。「人間がなにかをつくること」を材料にいろいろ考えたい、というのが基本なので、まだ見ぬ作家や作品、遠くのアートシーンとかにまで関心を拡張できない、、どうしても。。コストの問題で。いまやっぱりいちばん関心があるのは、過去にどのような人がどのような考え方をしてきたか、ということで、これは主に書物によって知ることがメインになる。というか、もう過去の人なので書物からしか知ることができない。それと同時に同時代の人たちの考え方も少しは気になる。これは主にネットのブログなど。といっても基本的には自分のはてなアンテナに登録しているブログしか読まない。ということはほとんど他人のブログは読まない、ということになる。そういえば、掲示板などはまったく見ない。なんでやろ。見ず知らずの人たちの見解の交換を読んでいる暇などないのかしら。おっと、あとそうだ。今日更新予定の「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」の第3回用の録音をこの前したのだけれど、そのなかでいまでいう「ホームレス」を「浮浪者」と呼んでいて、録音したあとにこれはひょっとしたらなんかダメなのかもしれないと思って調べてみたら、いちおう差別用語らしく、とりあえずこの分はボツにして、第3回に引き続き録音していた第4回分の録音を2回に分けて配信することにする。差別しない、無差別、というのはやはり難しいわけで、意識的な差別とは別に、無意識の、というか習慣・慣習による差別もあるからだけれど、それでも気付いたところから考え直していくべきなのだろう。別に「浮浪者」が差別用語かどうかはどうでもよくて、「ホームレス」にしろ「浮浪者」にしろ、そう名指される人々に対して差別をしていないかというと、どうなのだろう。差別とは言わないまでも、街中で見たら多少は警戒してしまうな。差別する/しない、とかいう心意気というか意識の問題なのではなくて、ホームレス「でない」ということはそれ自体でなんらかの差別を含んでしまっているのかもしれない。それと、「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」に関していえば、アートに本気で取り組んでいる人からみれば、ふざけるな!アートをナメるんじゃない!ということにもなりかねなくて、そもそも、アートにほんのちょっとだけ足を突っ込んではいるもののそんなに情熱のない人が「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」というコーナーなので、ほんと申し訳なくて、別に素人の目線から問題を深く抉り取っているわけでもないし、「対話」の面白さがちょびっとでも出てればそれでいいかな、、という感じ。それと、昨日のはなしで書き忘れたのは、芸術は「自己表現」である、芸術は「有用な真理」である、芸術は「イデオロギー批判」である、芸術は「文化の方舟」である、に付け加えて、芸術は「お祭り(の御輿)」である、というやつで、芸術で地域振興みたいなことはこれになるかと思う。でも地域の振興といったとき、芸術は両刃の剣のような気もする。。芸術の地産地消はかなり難しいだろうし、そもそもアートとか芸術とかいうときの知識や経験や関心の格差が年代や地域や職業などのあいだでものすごく違う。というのもあるのかどうかは分からないけど、芸術が「お祭り(の御輿)」になるとき、観客参加型とかワークショップとかアマチュア作家による発表会とか、そういう形態になる。コミュニケーションの形式として芸術を援用する、というような。でも、コミュニケーションが目的であるのなら、必ずしも形式として芸術を採用する必然性もないので、あまり芸術とか関係ないところに落ちやすい気はする。それはそれでいいと思う。むしろそれでいいとも思うが、それなら最初から芸術なるものを持ち出す必要もなかったのでは、というふうにも思う。芸術作品の受容に関しては、作品を介した作者と受容者の対話ではなく、作者とは無関係なところで、作品から受容者がどのような影響を受けるかだと思うので、そのような意味で作品と受容者の関係は非対称的で、それは「コミュニケーション」ですらない。もし作品を介した作者と受容者のコミュニケーションがあるとするなら、それは芸術行為・作品を話題にした普段通りの人と人とのコミュニケーションだ。話題は野球でもカレーでも宇宙旅行でも実のところ構わない。ここでは芸術行為・作品は単なる「話題」でしかない。というふうに思うと、作品を介した作者と受容者のコミュニケーションはないし、作品と受容者のコミュニケーションもない、という気になる。作品と受容者の関係は、作品が受容者に陥入する、入り込む、という方が近いような。そういう厄介なものにどう対処するか、という。うーん、どうだろう。すくなくとも、芸術行為・作品の体験について考える際に、受容者の主観にすべてを還元するのでも、作品の客観にすべてを還元するのでもないふうに考えたい。というか、実際にはどちらにも還元できないように見えるのだけれど。すべては、主観の思い込みと客観から与えられる質料のあいだにある、のでは。いや、どうやろ。