http://d.hatena.ne.jp/k11/20090108で9月14日の直嶋君の曲のことを、http://d.hatena.ne.jp/k11/20090116で9月14日の平間君の曲のことを書いてきて、直嶋君の曲のことを書いたとき、妙な気分というか、なんかおかしいな、というひっかかりがあって、それはたぶん直嶋君と平間君という「他人」の曲について書く「私」の立場の問題というか、作曲者でも観客でもない、演奏者としてその場に居合わせた者が書く、という変な感じというか、直嶋君・平間君の曲はもちろん私の曲ではないのだけれど、うっかり演奏者の持つ権利ギリギリ(越えてた??)まで行ってしまって、それはもちろん直嶋君・平間君の采配の懐の広さを表すものでもあり、私自身はものすごく楽しかったので大満足だが、しかしとはいえ、演奏者としては、行き過ぎているな、という反省も一方ではある。そしてその「行き過ぎ」が、イベントから何ヶ月か経って、直嶋君と平間君という「他人」の曲について書く「私」の立場にもうっかり反映されているような気がして、妙な気分を感じたのかもしれない。単純に、私の目線だけで書いてしまわざるをえない、という引け目なのかも。かつてその場に居合わせた観客として書くのなら、もうすこし相対化できるんだろうけど、演奏者という妙な立場から書くと、なぜか「オレがオレが」文章になるのはなぜだろう。すべて「オレの手柄だ!」みたいな。直嶋君・平間君の曲を演奏して楽しかった、というだけなのだが。うーん、でもこのまえ突然いきおいで平間君が大阪に来たときにもしゃべったけど、私(と平間君も?)は演奏者としては、かなりダメな方というか、よい演奏者ではなくて、作曲者の意図を汲む、みたいなことがない。いや、ちょっと違うか、自分の解釈の際に「作者の意図」っていうものを踏み台くらいにしか思ってない、ということか。これは観客としてみる場合とまったく同じ。だからたぶんダメなんだろうと。演奏者として、にしろ、観客として、にしろ、解釈をすることには変わりない。ほいで、なんらかの作品を解釈、つまり、主体的に(自分のこととして)再創造する際に、解釈の方向付け・フレーム等を作者(の背景やらなんやら)から持ってきた方がいいのか、持ってくるとしたらどの範囲のどの程度なのか。という問題がさっぱりお手上げだ。もちろん作者の目論見を理解しようとはするのだけれど、いつも結果的にはまったく無視してしまうので(我を通すとまではいかずとも)、これはこれでどうなんだろうか。そもそも、作品を通して作者の目論見を知り、その目論見についての思考(判断)をする、ないしは、目論見が作品としてきちんと実現されているかの思考(判断)をする、なんて見方をしていないから、これはしょうがないのか??作者の目論見や作品の(それが属するシーンでの)位置付けなんてどうでもよくて、その作品による体験が私になにをもたらしたのか、私をどう変化させるのか、だけしか気になってなくて、それだけだとちょっとまずいのかもしれない。。いま「アート」にできること。1.適度な身体的/精神(知)的刺激による気晴らしおよびヒマ潰しの提供。2.あなた、騙されているよ!踊らされているよ!もっと世界は広いよ!いろんな人や考え方があるよ!というお知らせ(啓蒙?)。3.「つくる」ことを通じて人と人をつなげよう。わたしとわたしの1者関係(アートセラピーとか自己との対話としての制作とか?)および、あなたとあなたの1者関係および、わたしとあなたの2者関係および、多対多の関係。4.アート祭りで村おこし。あとなんかあるかな。なんかこう並べてみるとけっこうどれも社会的。ということは、アートの「流通」(商品としてだけでなく)の部分が抜け落ちた、アート行為「それ自体」の有用性の議論は、不毛なのかもしれない。結局はアートの存在意義みたいな議論って、アートをやっている人が自分を自分で納得させるためにするもので、社会的にはあまり意義はない、というか、あくまでもひとつの思想でしかない「存在意義」というものを主張するよりも、実際に流通させて社会のそこここで機能させる方がどう考えても説得的。アート作品に礼拝する習慣なんて日本人にはないだろうから、アートはすごいのだぞ!と言ったところで、尊敬されるわけもない。といっても、社会のそこここで機能させる、といっても、別に「アート」という名を冠する必要がない場合が多かったりして、どっちかというと、社会の「設計」という意味では「デザイン」の仕事だ。そして内実はデザイン行為であるものごとをわざわざ「アート」と呼んでいるような気もしなくもない。そうなってくると、「遊び」とか「余裕」を社会に提供するのが「アート」みたいになってくるなあ、どうしても。それか、思索・思考としての「アート」になるのか。。でもこれはこれで、哲学・宗教・芸術の関係という、ヘーゲルさんがぶちあたったという問題が。最終的には宗教も芸術も哲学に回収できるんじゃないの、というふうにヘーゲルさんは言っているらしいが、伝聞なのでなんともいえない。(思考)経験の回帰(フィードバック)の仕方がそれぞれ違う、ということは確実なのだけれども。思索・思考としての「芸術」というふうに捉えると、どうしても、より根源的で基礎的なものとして「哲学」を上位に据えないといけなくなる。このへんは、哲学と芸術で用いるメディア、哲学はことば(による概念?)、芸術はいろんなモノやコト、の質料性が違うことを活用するしかないのか。どうなのか。