Telefon Tel Avivのサードアルバムが出ていて、梅田の丸ビルのタワレコで試聴して、ポップにHASYMOも大好き!みたいなことが書いてあって、それについてはとくに思うところはなく、だからなんやねんとは思ったけど、関西弁で。セカンドも試聴して買わなかったのだけれど、サードも同じく、2、3曲試聴して、やめとく。別に歌が入るのはかまわんけど、なんで歌が入るととたんにあらゆるものが「歌」・「(人間の)声」に支配されだすのか。配置とかアレンジとか、あ、同じか。構成とかも。というか、なんでこう思うのかというと、ただ単に聴くモードの切り替えが面倒だからで、つまり、Telefon Tel Avivを聴くに当たって私はインストゥルメンタルエレクトロニカを聴くモードなわけで、そのモードで歌、というか、ポップソングは聴けないわけで、そうなると聴くモードの切り替えをしないといけない。で、私に備わったポップソングを聴くモードといえば、ミスチルとかスピッツとかキリンジとかリップスライムとかクラムボンとかくるりとかのいわゆるJ-POP(ロックでなく)なので、それで歌ものエレクトロニカを聴こうとしても、すこしだけズレるので、その調整もまた面倒。そしてさらに重要なのが、音楽を「聴くモード」っていうのは、音楽に何を求めているかで決まってくるため、自分のなかにある複数のモードも、統合されたり分離されたり、する、ということ。私のなかにある、音楽に「抒情性」を求める気持ちは、最初J-POPに向けられていて、その後、ポストロックやエレクトロニカに向けられることになる。「抒情性」を求める気持ちが複数のモードに振り分けられる。「歌」と「インストゥルメンタル」というふたつの方向のモードに。でもここ4年くらいは、「抒情性」を求める気持ちはJ-POPだけで満足している。あと、私の中にある、音楽に「乗り」を求める気持ちは、テクノに向けられることになる。とはいえデトロイトテクノとか結構抒情的なので、「抒情性」を求める気持ちも少しだけ入ってくる。でも最近はわりと純粋に「乗り」というか「グルーブ」のみを求めているので、テクノに「抒情性」は求めていない。そしてもうひとつ私のなかにある(あった、というべきか)、音楽に「実験性」(芸術性かも??)を求める気持ちは、実験音楽とか(テク)ノイズとかサウンドアートとかの、大きくいえばテクノとは別の意味でのテクノロジーミュージックに向けられることになる。でも、だんだん「実験性」というか「芸術性」というものは、音楽に求めるよりも、もっと広い意味での「芸術」に求めた方が、満たされる気がしてきたので、最近は音楽に「芸術性」を求めることはしていない。「音の芸術(サウンドアート)」じゃなく「芸術としての音楽」には「芸術性」があるような気はするけど。そしてなにより音楽にそもそも「芸術性」は必要じゃないので、「音の芸術」っていうのは、転倒しているか、幻想でしかない、かもしれない。いや、このことは「芸術」の定義、というか、各人が「芸術」をなんだと思っているか、つまり各人が「芸術」になにを求めているか、による。そしておそらく「芸術」でいう「芸術(性)」と、「音楽」でいう「芸術(性)」ってたぶん一致していない。おっ、いま、いままで聴いていたTelefon Tel AvivFahrenheit Fair Enough」が終わった。wikipediaの「サイトスペシフィック・アート」の項より

サイトスペシフィック・アート(Site-specific Art)とは、特定の場所に存在するために制作された美術作品および経過のことをさす。一般に、美術作品を設計し制作する間、制作者は場所を考慮する。

いま、「サイト・スペシフィック」な「芸術としての音楽」というとき、目の上のたんこぶというと悪い意味になっちゃうけれど、ひとつの到達点としてあるのが、鈴木昭男さんの「点音」で、これは、野外における聴取地点の指定のみ、の作品なのだけれど、もうちょっとちゃんと説明すると、地面に貼り付けられた白い「足」のかたちのしるしによって、「ここに立ってあっちを向いてみたら面白いよ」、ということを指示する(教える)だけの作品。和歌山での「点音」ワークショップに参加したときのことはhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20070731にすこし書いた。なぜこれが「到達点」かというと、作者自身は従来の意味での「創作」と呼べるようなことを「ほとんどなにも」していないにも関わらず、まさにそのことによって、受容者と環境・状況の直接的な結びつきを実現してしまっているから。「ここに立ってみたらなかなかいいよ」という指示だけにも関わらず、その指示される対象が私たちを取り囲む「環境」そのものであるために、聴覚のみならず視覚や嗅覚や触覚を伴った複合的な体験になるし、なにより、なんの変哲もない環境を別の視点で改めて眺めてみる、ということになる。ここでいう別の視点というのは、対象からなんらかの「面白さ」を受け取る、というような受動的な態度ではなく、対象を「面白がる」という能動的な態度のこと。なんらかの「面白さ」(「美」と言い換えてもいい)を対象と自分との協働作業の結果として受け取ること。あと、さっき書いた「受容者と環境・状況の直接的な結びつき」には別の面もあって、従来の(近代の?)「芸術観」においては、受容者は作品を通して作者を知る、というようなことになっているが、そのような視点はこの作品にはそぐわない。そもそも作者としての鈴木昭男さんは「ここ」という「視点」を指示しただけであって、「そこ」から眺める風景や環境に手を加えるわけではないし(白い「足」のかたちのしるしは踏んでしまえば見えなくなる)、そもそも風景や環境は誰のものでもないし、誰か特定の人物の創作物でもない。だから、「点音」という作品=鈴木昭男さんのサポート、を受けながら、自分を取り巻く環境と向き合うとき、そのさきに在るのは、作者でも当の受容者本人でもなく、それらもろもろの関係をも含んだ環境(環境としての作者・環境としての受容者??)がただあるだけ。視点の設定によって、中心が変化する、というか、環境のさきにあるのは、作者か受容者かそれとももはや人間ではない第三者か、ということにもなる。見る主体が「見られる客体」として当の見る主体に見られるのか、見る主体が「見られる客体」に逆に見られているのか。このへんは、ちょっとまだ私には突っ込めない。視点を設定すること=中心をつくること、がそもそもどうなのか、という問題もある。わりあいややこしい。フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」を読み終わる。冒頭ですでに死んでいると告げられたペドロ・パラモが死んでしまった。佐々木健一「美学への招待」は昨日お風呂に入りながら気になる部分をざっと再読し、この前、梅田の阪神百貨店の催事場でやっていた古本市でみつけた神林恒道 編「現代芸術のトポロジー」に移ろうかというところ。パラパラと中身を見てみる限りは、「美学への招待」の4、7、8章あたりと繋がるかもしれない。そういえば、スポーツと芸術の繋がりをヴェルシュというひとの説を紹介しながら、えがいていた5章後半も再読してみようか。「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」でのオシムさんのことば、「アートをみるよりオリンピックをみる方が感動して涙が出る」というのも、あながち飛躍したものではないのかもしれない、ということだ。比較できちゃうのはなぜか、ということ。まずは「みる」ということから繋がるのか。それとも、プロ=生業を必ずしも目指さない(目指せない?)大勢のアマチュアによって成り立っている、というところも似ているのか。といっても、芸術においては、生業かどうかで、他の分野でいう「プロフェッショナル/アマチュア」の区別はできないし、その区別は内容の部分ではあまり関係ないというか。実家にあったのを持ってきたル・コルビュジェ「今日の装飾芸術」も最近パラパラめくる。昭和51年の第8版なのでけっこうボロっちい。生まれてないし。隈研吾さんの「負ける建築」や、多木陽介さんによる「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」を読んでみると、「設計する者」としての建築家に興味が出てきた。あらゆる設計の原点は建築なのだ。というようなことを吹き込まれた気がする。吹き込まれたというとなんとなく悪い意味に聞こえる。夕方ごろ、木下さんから、「今日はセグメンツ来ないの?(笑)」というメールが携帯にやってきたので、セグメンツというのは今日千駄ヶ谷ループラインで行われた「Segments Project vol.2」のことだけれど、「行きますよー。というか常にいます。離れていても心は木下さんと共にあります。」と返信。「one color」、「two colors」、「colorful」ってプログラム構成からして素敵。かなりポップな気がする。人間って視覚中心にチューニングされてるし。と思ったら、木下さんのブログによると、

「音」で作っていたセグメントを、「色」でやってみようという企画。
音は一切ありません。

いやー、どんな光景になることやら。
でも、殺伐としたものになるかなーと思ってたら、
リハを行ったanalogicの坂本氏によると、

「かなりポップっすよ」

ほんとー?!

「ポップな体裁を取りつつ実は難解」というのと、「難解な体裁をとりつつ実はポップ」の差は、かなりあるようにも思えるが・・・。

とのこと。