飛躍への憧れそれ自体は人間という生き物の内部にもともと備わっている、とか書いたけれどあまり正確ではなくて、たぶん、それで、どっちかというと、備わっているとかいう言い方よりも、ひとつの条件である、と言った方が近いと思う。で、「作品」への受容者の積極的な介入またはその他の要素の介入を誘うために、蓋然性とか不確定性とか曖昧性を「作品」内に取り込もう、またはそれ自体を「作品」としてかたちづくろう、とする場合、結局はその基礎になっている蓋然性とか不確定性とかの「概念」に対して当の受容者がどのような態度をとっているかが、その「作品」にどれだけ入り込めるかを決める、とこの前の日記で考えた。とはいえ、こうなるのはたぶん、蓋然性とか不確定性を「そのまま」提示しようとする作品の場合で、これは形式というかフォームとしての純粋さの徹底なのだけれど、こういう戦略をとると、蓋然性とか不確定性しか残らないから、結局は受容者がそれらの概念に対してどのような立場をとっているかが問題になる、というのは当たり前のことだけれども、しかしさきほど書いた「蓋然性とか不確定性しか残らない」というのは作者から見た視点(作者の「つもり」)で、ある「かたち」、ある「実体」として、つくられた「作品」に蓋然性とか不確定性だけしかないなどありえない。「実体」になるということはもろもろのノイズを引き受けるということでもあって、それをあたかもないものとして扱うのは可能だけれども、あくまで「あたかも」なので、なくなるわけではない。なのでそのノイズから別の入り込み方をされたりするわけで、仮に「開かれ」を志向する「作品」が、その実現のために蓋然性とか不確定性とか曖昧性を取り入れたとして、とはいえその実体としての「作品」には、さきほど書いたように、蓋然性とか不確定性とか曖昧性「以外」の要素をもみることもできるわけで、もしそのことを否定するのであれば、そもそもの志向である「開かれ」をも否定してしまうことにならないか。どうだか。ちょびっと話題を変えようとタイプしようとして3回くらい失敗して和田愛とかになってしまったりしたのは、いま暴君ハバネロスナックを食べながらタイプしているからで、なぜ暴君ハバネロスナックを食べながらタイプすると打ち間違うのかというと、もちろんそれがとても辛いからではなくて、左手でつまんで食べているので左手の親指から人差し指、中指、薬指くらいまでが油や味付けのパウダーで汚れていて、ティッシュで拭いてはいるけれどすこし気になり、キーボードの打ち方がぎこちなくなる。正確には、汚れている指をなるべく使わずにタイプしようとしてしまうので、そうなる。ほいで、この前、エーコが「開かれた作品」第一章「開かれた作品の詩学」の冒頭で、演奏者に解釈の余地が多く残された音楽作品の例として、シュトックハウゼンの「ピアノ曲11番」、ベリオの「フルート・ソロのためのセクエンツァ」、プスールの「交換(スカンピ)」を挙げているのは書いたけど、これらの作品と同傾向の試みを私も企画したことがあって、それについてはhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20060212をどうぞ。で、私が企画したこともエーコが挙げた3つの例と同じく、演奏者にある一定の枠内での自由が認められている、というか、その自由こそが作品生成の要であって、このルール=作品は何回やっても全く同じにはならない。ほいで、これのなにが面白いかというと、まったく先が読めないというか、その都度「先」が生成される、ということなのだけれど、ここで注意しないといけないのは、その面白さは演奏者にしか分からないということで、演奏者と受容者においてこの「作品」の「先が読めない=不確定性」へのアクセス(権)に大きな差がある。演奏者は「作品」の「先が読めない=不確定性」の内実を知っているから「先の生成」に立ち会う楽しみがあるけれど、「先が読めない=不確定性」ことすら知らない(ルールを知らないし、演奏者としての権利も与えられていない)受容者は、そのような過程=「先」の生成ではなく、結果としての音を受動的に聴くしかない。言い換えると、演奏者は解釈者として作品の「先」の生成に関われるが、受容者にはそのような権利は与えられておらず「先」の生成の残り滓としての音をなすすべもなく傍観するしかない。さらに言い換えると、ここでは、演奏者は過程に関わることができるが、受容者は結果にしか関われない。そして結果から過程は導けない(厳密には、導くための材料がそもそも与えられていない)。そして過程こそが作品であるような作品の場合、このことは非常に大きな問題となる。だからそういう意味で、私たちのこの作品を聴いたぐっさんは、自分でやったら(演奏したら)面白いんやろね、と言っていて、これを観客としてただ聴くだけなのは死ぬほど退屈だろうし、具体的に関われない作品の「先」の生成の過程について「想像しろ!」とまではいかずとも、「想像して楽しんでください!」っていうのも、ちょっと無理がある。し、もし仮に結果から過程を導くための材料が豊富に与えられていようと、「生成」を外から眺めるしかない、という受容者の立場は変わらない。外から眺める限り、「生成」は静的なものでしかない。もちろん、受容者を演奏者として取り込んでしまう、というのもひとつの手で、過程だけをとるならそれがベストだろうけれど、過程と結果のバランスを求めるなら、それはあまり得策ではなかったりする。昨日じゃない、一昨日、ヴィトゲンシュタイン「反哲学的男娼」ではなく「反哲学的断章」をぱらぱらとめくっていたら出てきた断章。

絵をうまい具合に額のなかにいれたり、うまい場所にかけたりしたとき、しばしばわたしは、その絵を自分で描いたような、誇らしい気分におそわれることがある。だがこれは、適切ないい方ではない。「その絵を自分で描いたような、誇らしい気分」ではなく、その絵を描くのを自分が手伝ったような誇らしさ、いわば、ごくわずかの部分だがその絵を自分が描いたような誇らしさ、なのである。これはちょうど、生花の巨匠が花をいけおわったときに、すくなくともごく小さな葉は自分がつくりだしたのだ、と思うのに似ている。巨匠にとっては、自分の仕事がまったく別の領域にあるということが、ちゃんとわかっているはずなのにである。きわめてちっぽけな、きわめて見すぼらしい草花でさえ、その生成のプロセスは、生花の巨匠には手のとどかない、未知の世界にあるのだ。

この断章は、「開かれた作品」というよりも、その逆、誰かがある「かたち」に固定した「作品」に主体的・能動的に、自分を「開いて」関わることについて、語っている。ような/のでは。エーコはそれを「作品」や「作者」の側から語っているからややこしいのか、どうなのか。ほいでこれもこの前書いた曖昧性→「詩」ということに関係ありそうなことが、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」第三章「郵便、リズム、亡霊化」の冒頭にあった。

脱構築は、テクストに残された「外部」の痕跡を追跡する。そしてその作業は具体的には、一方で前章でも挙げた両義的概念、「パルマコン」や「婚姻=処女膜」といった語の分析に、他方でマラルメソレルスやポンジュといった詩的テクストの読解により導かれる。つまり脱構築は、逆説と詩を通して外部へ至る。

両義的概念=逆説と詩。いまのところ私には縁のないふたつの道具。