Re-TATTAKAさんによる、「2009-01-09[戯言]美術の代用品(オルタナティブ)」(http://d.hatena.ne.jp/Re-TATTAKA/20090109)という文章が面白かったです。

アートに変わる「存在」としての非/アートは、交換を許さないがゆえに、あらゆる場所での交換と往還を可能とし、誤配され、投げ出されては、その浮遊する価値を示す。

という一節を読んでちょっと思い出したことがあります。その前に、今日は久しぶりにチャリで三宮に行ってみる。といっても、あかつき書房とジュンク堂ミント神戸とりそなのATMくらい。行ったのは。葛西薫さんデザインのカレンダーを買う。今年は一昨年と同じ罫なし。去年は罫なしが売り切れのため罫あり。罫ありもよかった。ミント神戸の雑貨屋さんで、なぜか50%OFFで、600円くらい。ジュンク堂では、ちくま学芸文庫入不二基義相対主義の極北」が気になるが、すげー難しそう。それはそうと、内田樹さんは「創造的労働者の悲哀」(http://blog.tatsuru.com/2006/12/19_1116.php)というブログのエントリで

自己表現としての芸術創造よりも、労働の方がずっと達成度についての判定は「甘い」。
だって、芸術の場合は「他人と同じこと」をしたら、それがどれほど高度の技術や熟練や努力の成果であったとしても「無価値」と判定されるからだ。
でも、労働の場合は「他人と同じこと」をしても、それが客観的に有用なものを生み出している限り、高い評価を得ることができる。

ということを書いているが、まったく逆の場合もありうるんじゃなかろうか。労働よりも自己表現としての芸術創造の方がずっと達成度についての判定は「甘い」場合がある。いや、この言い換えは厳密ではない。もちろん判定じたいは「辛い」が、芸術の場合、その判定を表に出す、つまり作者に直接伝える場合はかなり少ない。「ない」といってもいい。自分の判定を伝えず曖昧に、よかったよ、とかお世辞を言うのはベタベタに「甘い」。その態度の裏にあるのは、芸術は「人それぞれ」だから、好きでやっていることに水を差してはいけない、という思いやり。その思いやり自体は非難されるものではないが、自分なりの理解(再創造)をする努力もなしにベタベタした思いやりだけをふりまいていては誰のためにもならない。もうひとつある。芸術の場合、「他人と同じこと」をしたら「無価値」だと判定される、とのことだけれど、それは裏を返せば「他人と違うこと」でさえあれば、作品の「価値」が鑑賞という経験抜きに保証されてしまう、ことでもある。また、「他人と違うこと」それ自体が目的化してしまうという事態は、個々の表現者が「表現すること」について考えることを阻害しているのではなかろうか。さらに、問題はそんなことじゃない。「判定」というものがいかにして可能になっているのか、が問題なのではないか。つまり、判定というものがおうおうにして、対象の外側から他人事として暴力的になされる、ということが問題なんじゃないか。労働にしろ芸術にしろ、判定をする際に「質」が「量」に不当に転化されてはいないか。内田さんは、引用した文章のなかで、芸術と労働における達成度の判定の違いを、「他人と同じこと」に対する対照的な態度を例として挙げることで、説得的に書こうとしているが、ここで前提にされているのは、芸術も労働と同じく、その達成度を客観的に、つまり対象の外側から「判定」できる、ということ。このような前提は一体どこからやってきたのか。芸術作品の受容とは、「他人と同じ」かどうかが基準の、価値が「ある/ない」の二択なのか。それとも、5段階評価の通知表みたいなものなのか。ここでもまた、芸術の経験という「質の問題」が作品の達成度という「量の問題」にすりかわっている。芸術作品の受容とは、受容者がその経験をいかに自己の問題として再創造していくか、の運動であって、主観的な基準に基づき作品の外側から判定していく行為ではない。そこではそもそも「他人と同じ」かどうかは問題にはならない。そんなことを気にするのは玄人ぶった見栄っ張りだけだ。おっと、そうだそうだ。Re-TATTAKAさんのいう「美術の代用品(オルタナティブ)」についてまだ書いていませんでした。さきに引用した一節を読んで、私は去年まで配布していた「ご自由にお持ちください」(便宜的にそう呼ぶだけで、呼び名はありません)を思い出しました。http://d.hatena.ne.jp/k11/20070706にQ&Aというかたちで事後的に思ったことを書いていますが、いまとなっては現在の興味とすこしずれているところもあります。複数の問題意識をバラバラなまま混ぜちゃったような行為ですが、それゆえまだ掘りがいがあるかもしれません。Re-TATTAKAさんはさきほど引用した一節のまえに、「アノニマス」(匿名性)についてちらっと言及していらっしゃいますが、まさにその点で「ご自由にお持ちください」(便宜的にそう呼ぶだけで、呼び名はありません)を思い出しました。私は「交換」について考えているうちに、そもそも芸術行為において誰かと顔をつきあわせて、何かを「直接」交換する必要があるのか??と思ってきました。別にお金は欲しくないですし(それだけで食っていけるくらいの規模であればまた違うかもしれませんが。そんなことはありえません)、そんなに褒めてもらいたいわけでもなくて、どっちかといえば、私のやることが相手にとってなにかのきっかけになったらいいな、というくらいのものです。それならば別に記名する必要はないんじゃないか、と思いました。つまり、交換の相手を知り、その相手から直接なにかを受け取る必要が、私の側にはない、ということでした。といっても、そういうふうに思い始めた直接のきっかけはおそらく、作品の解釈やら経験の意味付けが作者だけに向けられてしまうことへの不満からです。また、無記名のカセットを持ち帰った誰かはどのような気持ちでそれを聴き、録音されたロケーションの写るポラロイド写真を眺めるのだろう、という単純な興味もありました。あと、いま書いたことはほとんどすべて事後的に(反省的に?)考えたことです。これをやることで自分はなにを考えているのだろう、という反省。