さっきまで「エクスマキナ」を見ていた、ということになるのだけれど(借りたDVDは少なくとも2回は見る)、実際はずっと寝ていて(「アップルシード」の2回目もほとんど寝ていた)、開始10分くらいからずっと寝ていて、ラスボス的ななにかがいるところに向かうぞ!というあたりで起きて、ぼーっと見ていたけどどこまでもつまらないので、エンドロールの曲を聴くべくスキップした。モデルの太田莉菜さんが歌っている曲が。作詞も。その後HASYMOの「RESCUE」に。ちなみに「パターン介入」っていうことばは、この前「ホムンクルス」を単行本で読んでいたら出てきたことばで、おっまさにこれだな、と思ったやつで、どうやら心理学とかそういう方のことばっぽい。マンガはすごい。そしてとうとう今日からこれが始まって→http://www.webarc.jp/2008/09/04211730.php 「関西在住のアーティストによるアートレビューコラム」といいつつ、アートレビューですらない。個別の作家や個別の作品に言及することは一切なく、これからもなくて、これでいいのだろうかと思いつつ、具体的なアイデアの核はアサダ君によるものなので、いいのだろうー。というとあたかもアサダ君のせいのようだけれども、打ち合わせの際に、個別の作家や作品に言及するのは気が進まない、ということを私が言ったからで、これは前任の山本握微さんがその路線で面白いことをやっていたからというのもありつつ、いちばん大きいのは、私自身が個別の作家や作品レベルだけでは、そんなに芸術に興味がないということかもしれない。もちろん芸術は個別の作家や作品というかたちで顕れるのだけれど、その顕れること、そういう人間の行為がすごいなあと思っていて。それがあるから個別の作家や作品もすごいなあと。コーナーのタイトルは「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」というもので、アートに興味のない人とアートについてはなす人(私)がはたしてアートに興味があるのかというと、さっき書いたように、人間がなにかを顕わすことそのものには興味があります。とはいえ、ビックリマンシールみたいに、アーティストシールをたくさん集めて、そのウラにあるアート物語を消費する、とかそういうことはできなくて、できないというかそこまでの情熱がどうしても持てない。別に血眼になって探さなくても面白い作品や人ってそのへんをなんとなく歩いててもたくさん出会うし。この前パンタロンでみた前田季実子さんの作品は面白かったです。ご本人に対しても過剰なくらい褒めちぎりましたが、そのうち書きます。どっちかというと、いまはまっているのは、哲学者・思想家シール集めです。シール集めのなにが悪い!と開き直るつもりではなくて、情熱を持って取り組むならどうしてもそういう側面があることからは逃れられないというだけですね。あと、芸術に対するアプローチが専門分化するのはしょうがないとして、見方・使い方までも専門分化する必要は、おそらくないんじゃないかと思います。昨日はというか日付としては今日だけれど、平間君と恋人同士でもないのに深夜の長電話をするが、電話代は向こう持ちなので申し訳ない気持ち。「エクスマキナ」を借りるときにうっかりパッケージごとレジに持っていってしまって、次回からは中身だけお持ちください、と冷静に叱られる。ものすごく正直に言ってしまうと、「作家さん」って言い方がなんとなく嫌だ。ギョーカイジンみたいな感じがするからだろうか。アート関係の人はそういう言い方をよくするけれど、ひとことで言い表さないといけないからしょうがないのも分かるけど、やっぱりその囲いは空虚ではないかしら。作家と非作家の区切りをつくる必要はなんなのだろう。そもそも「何」作家なのか。物書きなのか、雑貨をつくっているのか、絵を描いているのか、すら分からない、これでは。いやー、でも空虚でもその場しのぎの便宜的な囲いが必要な状況もあるか。じゃあそういう状況がなぜ発生するのか。人間が、意味というか概念を連結していくことで物事を理解するようになっているからか。そのとっかかりはなんでもいいけど、必ず最初のひとつが必要だからか。こちら息子さん?ああそうそう。学生さん?いや、風来坊。というふうに、うちの親父は私を誰かに紹介する。風来坊って。プロフィールとか自己紹介っていうのも難しくて、私の自己紹介を見たり聞いたりするよりも、この日記とか実際の私の振る舞いとか佇まいとかそういうのを見た方がよっぽどマシだと思う。私は初めて会った人の「いままでなにをやってきたか」とかそういうプロフィールのようなものを聞くのが退屈でしょうがなくて、それよりも表情とか振る舞いとかそういう実際の身体から発される情報の方が明らかに有益だ。いまここにどのように在るかが重要なのであって、いままでどこでどのように在ったか、とか、これからどこでどのように在りたいか、とかそんなのはどうでもいい。杉田敦「権力―思考のフロンティア」は本日読了。権力についてちょっと掘ってみようかなーという気になる。バーバラ・M・スタフォード「ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識」は今週月曜くらいに読了。1冊読了したので、ジャン・ボードリヤール「物の体系―記号の消費」を読み始める。むーずーかしーなー。ひとまず序論を読み終わって、

コーヒー挽き器の器械において≪本質的≫で構造的なもの、したがって最も具体的に客観的なものは、電気モーターと、発電所から供給されるエネルギーと、このエネルギーの生産と変形の法則である。特定の人間の要求にかかわるものであるために、すでに客観的でなくなっているのは、コーヒー豆を挽くというその明確な機能であり、まったく客観的でなく、したがって非本質的なのは、コーヒー挽きの器械が緑か長方形か、バラ色か台形かということである。電気モーターというひとつの同じ構造が、さまざまな機能に特殊化することがありうる。<中略>逆に同一の機能を持つ物が、いくつかのかたちに特殊化することもありうる。

というところにほうほうとする。こういう考え方は深澤直人さんのプロダクトにも通じるような気もする。さっきブログ通信簿をやってみたら、性別不詳だった。