心斎橋と南船場でヨシノブのフェルトの動物の展示とコジカカバンの展示をみたあと、どちらも大学のときの友達なのだけれど、大学のときとはわりかし違うことに打ち込んでいるのが興味深くそして出来上がったモノも興味深くみたあと、徒歩で梅田まで歩く。歩きながらふと思い立って、ケイタイのメモリーから、もう連絡をとらないであろう人の連絡先を消す。淀屋橋のあたりに新しい商業・オフィスビルができていて、文教堂とかいう書店が入っているのが外から見えたので行ってみるが、書店としてはとくになんら大したことはなく、雑貨屋となんかの服屋をのぞく。雑貨屋には60ヴィジョンのいろいろとかプラマイゼロとかアマダナとかモールスキンとかその他とか、まあいまよくある商品がもろもろと。こういう一種のチェーンっぽい雑貨屋というかインテリアショップってほんとむずかしいというか、どこに行っても、福岡でも大阪でも神戸でも東京でも北海道でもどこでも!同じようなものがあるので、なんといったらいいか、むずかしいなと思う。商品の「セレクト」が店(ひいてはオーナーもしくは店主)の個性だ、というのが「セレクトショップ」の前提なんだろうけど、個々の商品のセレクトに多少の違いはあっても、おおきく見たときにその「セレクト」の幅がまったく一緒なので、同じ商品を全国津々浦々違うひとが違う場所で売ってるだけ、という。インテリア雑誌をみているのとまったく同じ。そう考えると、なんだか、コンビニみたい。だから、「セレクト」に行き詰まってオリジナル商品をつくったりもするんだろうけど、たいていは別につくる必要のないもので、なぜなら他社(他者?)との差別化のためにだけつくられたものだし、そういうののほとんどはなんだかどこかで見たようなものだし、結局は自社生産による「安さ」だけが売りだったりする。そして、それぞれの店舗=商品の入れ物=商品の提供の仕方、にダイナミックな違いの幅があるかというと、別にあるわけもなく(マニュアル化された接客、マニュアル化された店舗設計、マニュアル化されたショップコンセプト、マニュアル化された考え方、マニュ)。イメージの消費としてのモノの消費、というのはたしかにそうだと思うし、モノが、道具として、愛でる対象として、と二重に意味があるのもたしかにそうだ。自分が考え行為するために(はたらきかけるために)「デザイン」を求めているのではなくて、イメージを消費するために「デザイン」を求めているということなのだろうか。デザイン家電とかいうけれど、そもそも家電製品がデザインされているのは当たり前で、そこにあえて「デザイン」をつけることに、そのへんの事情があらわれているようにも思える。デザイン家電、っていうときの「デザイン」って「かっこいい」とか「おしゃれ」とかいう程度の意味しかない。いまや、機能的であること=スマート=オシャレ、というふうに翻訳可能なので、そのラインでもデザインのイメージが消費されることになる。そういう状況に自分もはいっていることをまずは受け止めて、いい感じにうまく泳いでいくためにはどうしたらよいのだろうか。大阪のジュンク堂をぶらぶらしていると、芸術の棚にて「大航海」という雑誌を発見して、最新号の特集が「[現代芸術]徹底批判」というわりとたいへんなタイトル。ちょっとだけ立読みしてみるけれど、なんとなく芸術の現状を嘆いているのはわかった。でも、芸術を続けていく、または、再生させるために「批判」する、っていうのはよく分からない。もちろん「批判」ということばがそういう意味なのだけれど(批判と非難は混同されやすい)、芸術ってものをいったん全面的に信じたうえで、その不備を正す、というやりかたはよく分からない。不備=問題、について考えていくうちに、もし仮に芸術なる概念を廃棄するのがベストとなれば、さっさと廃棄すればよい。捨てる技術。だいたい、芸術における民主主義はかなりの程度すすんでいるように思えるので、いまさら貴族制には戻せないし、しかしとはいえ、芸術をいわゆる「芸術」のまま存続させたいのであれば貴族制にしないといけないだろう。もういますでにそうなっているけど、民主主義と貴族制はばきっと分かれて交わることもなくそれぞれ勝手にやっていくのだと思う。それがいつまで続くかは分からない。芸術という語の意味を厳密に限定しても、芸術=技術というところまで戻しても(どっちも同じことだ)、たぶんいまからの時代にはそぐわない。デザインする職能=デザイナーはなくならないが、アート(芸術)する職能=アーティスト(芸術家)はなくなる可能性がある。それがなぜかというと、前者はいままでも(これからも)ある種の技術・方法論を基盤とするが、後者は必ずしも特定の技術・方法論を基盤としない場合もあるから。しかも、「考える」ということにおいて「哲学・思想」と「芸術」の境目が曖昧になるし、「行動する」ということにおいて「政治・運動」と「芸術」の境目も曖昧だ。そういう状況で、どのようにして「芸術」・「芸術家」という概念を囲い込んで(定義して)いったらいいのか、という問題意識が「[現代芸術]徹底批判」というふうに現れているのだろうけれど、その問題意識において自明のものとして前提にされているのは、たぶん、「芸術という概念を囲い込まないといけない」というもの。なぜ囲い込む必要があるのか、が私にはよく分からない。誰が得をするのだろう。誰がじゃなくて「芸術」を生かすためなのだ。と言われたとして、じゃあなぜ「個々の人間の活動」ではなく「芸術なるもの」を生かさないといけないのだろう。「個々の人間の活動」において「芸術なるもの」を基盤にする必要性もなくなってきているのに。とはいえ、とはいえ、概念として囲い込むことはもちろん可能で、でもその結果あらわれるのは、プロとアマの境界、作者と受容者の境界、芸術家とそうでない人の境界であるわけで、そういう「境界」の必要性の有無をきちんと論じたうえでないと、私としては、そういう囲い込み(と、結果生じる境界)には納得しかねる。仮に、いまが「誰でも芸術家」状態であることを認めたうえで、レベルの底上げをするのだ、という議論があったとしても、おそらく、もう、質の問題でも量の問題でもなくて、「芸術」というゆるやかな「方法」が個人においてどのように現れるか、というのがおもしろポイントなのかもしれない。自己実現のため、自己療養のため、自己顕示欲のため、自己承認欲のため、などなど、どういう動機であれ、「芸術」を「方法」だと仮定するならば(仮定ではなく現実にはそうなっている気がするけれど)、動機に関しては問われないことになる。このことをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかで、ばきっと立場が分かれる気がする。