10日くらいからまたのどが痛くて、熱はないけど、7日と8日に平間君やよなさんとたくさん歩いたからか、それともコムポジションをみるあいだマスクを外していたからかどうかは分からない。それにしても鎮痛・消炎のボルタレンはすごく効く。治ったかのよう。でももちろん治ってない。。姉ちゃんと妹が最近ゆたんぽを使っていて、姉ちゃんは私の分も買ってきてくれたのだが、なんとなく使ってなくて、おととい使ってみたらあったかくてよかった。ゆたんぽといえば足元に入れるものだけど、背中の後ろに置いたりおなかのあたりに置いたりしてみたらよかった。でも昨日、同じように使っていたら暑くて汗だくになった、冬なのに。ゆたんぽカバーは妹は猫、姉ちゃんはなんやったか忘れた、私はパンダ。黒いパンダ。そういえば、オノヨーコさんのインストラクションに「地球が回る音を聴きなさい。」っていうのがあるらしい。あと私のクセはたぶん、物事の個別的な面を離れて抽象的に考えてしまいがちなこと。「想像しなさい。お風呂で髪を洗うとき、あなたのうしろで落ち武者が刀を振り上げているところを。」これは誰でも一回は想像してみたことがあるんじゃなかろうか、私はある。とりあえず、芸術(美術・音楽・映画・詩・小説・演劇・・・・・・・・・・)の受容に際して、言語ないしは思考の必要の有無の議論はとことん不毛でしかないので関わりたくないし、結局のところ個々の主義主張のぶつかりあいでしかなく何の生産性もないようなこの議題はできればどっか遠くにいってほしい、、という願い・主義主張をいつもいつもここに書いているような気がするけれど、たとえば、芸術の受容には言語ないしは思考の必要などない、という命題自体が、言語ないしは思考によって組み立てられたものですよね、そしてそれをまた言語によって他人に伝え、他人の思考へ働きかけるわけです。それはそれでどうなんですかね、芸術の受容に関する言語および思考の使用はそれを禁止する命題に限ってアリなんですかね、それだけは例外なんですかね、みたいな循環を作り出す論法はかなりソフィストっぽい、というか屁理屈かつ意地悪だ。意地悪でない言い方をしよう。芸術(美術・音楽・映画・詩・小説・演劇・・・・・・・・・・)は頭でみる・きく・よむものではなくて、言葉で「理解」するものでもない。といったときに、そこで排除したいのは、なんだろう。「言語と思考そのもの」なのか「先入観(イメージ)による決めつけ」なのかそれ以外にあるのか、とにかくはっきりしない。そもそも「言葉」という言葉と「イメージ」という言葉が混同されてないか。どうだろ。たぶん、意図としては「先入観(イメージ)による決めつけ」が近いと思うのだが、つまり、先入観に囚われずまっさらな気持ちで接してみてくださいと。それを言おうとして、勢い余って言語と思考それ自体を排除しようとするのか。それとも意図して言語と思考それ自体を排除しようとするのだろうか。そこはとりあえずおいとくとして、先入観に囚われずまっさらにと言われてもけっこう難しいのは言うまでもなくて、そもそもそういう作者は自分の先入観を相対化できているのか、という問い返しも必要で、これもまた難しいと思う。そういう意味では作者も受容者も条件は同じか。思うに、だったら、なるべく先入観の入り込む余地のないことをやればいいんじゃないのか。先入観を持つなとか無茶なことを言うよりもまず。あらゆる表現にはその形式や歴史に基づく先入観があって、それを意識したうえでやるだけでもずいぶん違うだろうし、なんというかそういう努力もなしに、受容者ばっかりに受容の責任を負わせるのははっきりいっておかしい。はなしがずれてきたけれど、書きたかったのは、ヘーゲルが洞察しているらしいことと、保坂和志さんが言っていることが近いということで、まずこのまえ引用した竹田青嗣プラトン入門」を再度引用。

 ゼノン的パラドクスは、一方で、言語を何とでも使用するという相対主義に振れ、そこから必ず詭弁論的戯れを生み落とす。もう一方でそれは、言語それ自身への不信から言語による世界の表現不可能説へ流れ、さらにそれは、真理は決して言葉で表現されえないという「真理不可言説」を生み出すのである。
 しかしヘーゲルがはっきり洞察していたように、「真理」とは、ものごとの何であるかを言語によって表現していくという経験のプロセスとしてはじめて現れうるものだ。つまり、「真理は決して言葉で表現されえない」やその逆に「言葉でいわれたものは真理ではありえない」という考え方は、まず例外なく「真理」という概念の素朴な”実体化”に由来するのである。

いまの文脈で注目したいのは、

「真理」とは、ものごとの何であるかを言語によって表現していくという経験のプロセスとしてはじめて現れうるものだ。

ということば。ほいで保坂和志「小説の自由」「4 表現、現前するもの」より。

小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきり別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることができない。

共通するのは、どちらも、「真理」や「小説」を「実体化」させるのではなく、それらをその「経験」のプロセスとして描こうとしていること。だいじなのは、保坂さんも「言葉」で「伝えられない」と書いてはいるけれど、どちらかというと言語そのものを否定するなんて大雑把なことではなく、言語という秩序・法則によって「意味」の観念が縛られているからじゃないか、とか、いろいろ考える方に向かうこと。芸術(美術・音楽・映画・詩・小説・演劇・・・・・・・・・・)の受容に際しての言語ないしは思考の必要の有無の議論が不毛なのは、言語という秩序・法則によって引き起こされる良い面・悪い面について細かく考えもせず、なぜか一挙に言語そのもの(なんていう言い方からしてかたちのない、言語という秩序・法則を実体化しているような)を否定しようとするばかりで、実のところ、当の芸術の受容をどういうものとして捉えていきたいかを考えることから逃げちゃっているからではなかろうか。言葉で捉えるのでは「ない」なにか・・・・、ってぼんやりしすぎというか、イメージに頼りすぎというか、神秘主義まであと一歩だし、こういう誰にでもある思考の傾向を東浩紀さんは「否定神学」って呼んでいる、たぶん。保坂さんも小説を言葉で捉えたらいけない!とかひたすら言っているが、それは常識というかたちで私たちに染み付いた決まりきった感じ方=秩序・法則のなかで言葉を使っても貧しくなるだけだ、というようなことを言っているのであって、そこから「小説は読んでいる時間の中にしかない。」という言葉が出てくる。「芸術に言葉はいらない」という言い方自体がもはや決まりきった感じ方の領域に入ってしまっているような気がするし、いまさらそんな言い方を繰り返したところで、何が始まるというのだろう。芸術の受容に言葉はいらない!とかいう回りくどい言い方をしないで(言葉でいろいろ言われた個人的な恨みでもあるのだろうか。でもそれとこれとは違う)、芸術はそれを経験しているあいだにある!と言ってもらえれば分かりやすいし、そこから自分なりに考えてみることもできそうだなあ。