今日もまた静養しております。忘年会に参加できず申し訳ありません。LOCUS関係のみなさま。うーん、昨日のはなんかいちいち言うまでもないというか言う必要もないようなことを言ってしまったような気もするけれど、そういう場合、たぶんその日記をまるごと消したりするんだろうけど、そういうリセットもあんまり気が進まない。まあ、なんだろう、何を言いたいのか。芸術(美術・音楽・映画・詩・小説・演劇・・・・・・・・・・)は頭でみる・きく・よむものではなくて、言葉で「理解」するものでもない。といったときに、「ではない」で否定されているのはどんな状態なんだろう。単純にいえば、えーと、たぶん、「真に受けてない」・「本気にしてない」・「ちょっと距離を置いている」状態か。すこし細かくいえば、いままさに経験している物事をも、言語による思考でリアルタイムに自分ルールで相対化されている、ってことかしら。さらにまた大雑把にいえば、自分の価値観に囚われて、わざわざ面白くなく見ている、ということか。で、芸術をみるときの「自分の価値観」が経験を貧しくしてしまうプロセスもろもろを含めて、芸術を「頭」でみる、とか、芸術を言葉で「理解」する、とかいうのだろうか。保坂和志さんが「小説、世界の奏でる音楽」の「まえがき」で書いていることとも近いかもしれない。前にも引用したけど再度引用。

本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。

とはいっても、誰かがつくった作品を、その作者と同じように見れる(感じとれる)とは限らないし、対象が同じならそこまで大きく違うことはなくても、100人いたら100人の見え方(感じ方)があるのは当たり前。でもそういう見え方(感じ方)に影響を与えている要素がたぶんあって、それはそれぞれの見方(感じ方)の方法のようなもので、大きく分けて三つあるような。1、作者の見え方(感じ方)を最良とする見方(感じ方)。2、自分の見え方(感じ方)を最良とする見方(感じ方)。3、作品に含まれる見え方(感じ方)を最良とする見方(感じ方)。1はまあいちばん一般的。作者の見え方(感じ方)で見ないといけないと思っているから作者の意図を重視する。2は作品に自分の価値観を投影して、見たいように見る。3は1と似ているけど、あくまで作品をベースにする。どちらかというと、見えるように見る。作品が見て欲しいように見る。作者じゃなくて。作品は作者の思惑を超えることが多々ある。このなかで、どれがいちばん作品を真に受けているかというとやっぱり3だと思うけれど、こんなばきっと分けれるものでもない。めちゃくちゃ頑張って、2と3のあいだにいけるくらいか。そもそも3はそれぞれ個別の視点を持たざるをえない人間には不可能な神の視点。というか「作品」の視点。いちばん芸術的じゃない受容の態度は1だと思う。何も考えない。作者や他の解釈者に言われるように見る(感じる)。作者の意図と作品との繋がりを確認して終わり。それで満足。これのなにが面白いのか。だから芸術が面白くないって思うんじゃないのか。だから芸術家が図に乗るんじゃないのか。お前らにオレがつくった面白いもの見せてやるよ!さあ楽しめ!見物料を払え!作品を買え!っていう上から目線。はなしがずれてきた。なにかにグチグチ文句を言うよりも代替案を出す方が生産的。作品を信じて真に受ける、っていうのは意外と難しいというか、そういう技術がいるような気がする。やっぱりどうしても自分の趣味・嗜好がまず顔を出すし、『自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていく』にしても捨てるにはまず自分の読み方の流儀(というのか先入観というか思い込みというか偏りというか)をはっきりと自覚して相対化する必要がある。これが難しいというか、どこまでいったら自覚した、と言えるのかが分からないので、うっかりやり始めると死ぬまでのライフワークになってしまう。でもやらんよりはやった方が、楽しく作品をみれる。たぶん。芸術鑑賞外の日常の感覚がけっこう影響を及ぼしていたりする。お金についての感覚とか合理性の感覚とかいろいろ。どうすれば、自分の読み方の流儀(というのか先入観というか思い込みというか偏りというか)を自覚できるんやろか。自分じゃない人の視点を借りてみるのがいいのか。それとも、とことん自分で自分を追い詰めるというか、自分で自分を守らないようにすればいいのか。『新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと』ができるためには、自分を投げ出しても大丈夫と思えないといけないけれど、自分を投げ出せるかどうかはたぶん、自分が「自分」にどれだけこだわっているかにもよる。個性とか自我とかアイデンティティとかにこだわっていると投げ出せない。それは「自分」がなくなることだから。で、ひとつやっかいなのが、そういう、「自分」をなくすことが目的になってしまうと、今度はそれが個性とか自我とかアイデンティティとかになっちゃうってことで、そうすると「自分がないこと」にこだわりだしてしまう。「自分がない」のが自分だと。これはもうなんじゃこれと言うしかない。「自分がない」なんてありえないけど。またはなしがずれてきた。今日のガンバ大阪マンチェスターユナイテッドの試合はよい試合だった。遠藤のコロコロPKも見れたしなにより入ったし!ルーニーがあんなすごいとは知らなんだ。ふわっと動いてそろっと点をとる。最少のボールタッチで。そういえば、大学の頃は授業の課題にしろ学祭とかの作品展示にしろ「これのコンセプトは?」とやたら訊かれて困った。ほんとそのときはコンセプトがなにか分からんし、いまも分からんけど、コンセプトというとやたら大袈裟な感じで、社会問題に結び付いてたり。社会問題に物申したいなら作品つくって展示とかじゃなくて市民運動でもやった方が早いよ、とは思ったけど。現場でなにかやった方がマシだろう、どう考えても。作品と社会問題はものすごく遠いし、それよりはあなたと社会問題の方がまだ近いと。ほんとコンセプトコンセプト言われてコンセプトありきだとか言われて、コンセプトアレルギーで、というか、作品って「何か(概念)」を「何か(質料)」で表すためのものなのか、っていう疑問もまずあるしなあ。この頃はひたすらサウンドファイルをいじって「つくる」楽しみと、「自分の好きな音楽を自分でもやってみる」楽しみに没頭していたから、なおさらコンセプトとは縁遠いわけで、いまはもうコンセプトアレルギーは治った。作品って「何か(概念)」を「何か(質料)」で表すためのものなのか、っていう疑問はまだある。少なくとも「言った」ことが言った「つもり」のまま伝わると思うと痛い目をみる、というか、それはやっぱりちょっと甘い。芸術行為(と言葉)は可逆圧縮じゃないから、エンコードとデコードにはズレがある。でも「圧縮」=なにかをなにかに込めて伝える、っていう比喩がまずどうなのか、とも思う。