だいぶんむかしのはなしだけれど、あさ起きて1階に降りていくと、妹がコップに入れた麦茶をストローで飲んでいて、??と思っていると、どうやら昨日の夜から断食していたらしく、そしてその断食のせいでふらふらになりコップを持てなくなったため、仕方なくストローで飲んでいる、とのことで、もう断食やめた!と言っていた。断食っていっても2食抜いただけなのに。なんだっけ、デトックスだっけ。意味は知らないけど、なにか悪いものを排出する、みたいなやつ。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080524 それで、たぶん、パクリとか二番煎じ、っていうのも、ものごとの意味がひとつしかない、ないしは、ものごとの意味は固定されている、という考えがベースにあるから出てくるような気がして、そうしないとそもそも「オリジナル」:「コピー」もしくは、「X」:「Y」(でも「A」:「B」でも「○」:「×」でもいいけど)という比較ができない。比較をするためには、意味の動きを止めないといけない。おそらくものごとの意味の動きは止められないのだけれど、比較するために、止められるっていう設定にしちゃおう、ということ。あともうひとつは「所有」という考えもベースにあるような。このアイデアは誰々ので、あのアイデアを最初に考えたのは誰々、というような。「所有」においては、基本的には早い者勝ちなので、つまり最初にこれは自分のものだと「大きな声で」宣言した者のものになる、ということで、だからみんな先を争って、最初の発見者になりたがる。つまり、最初の発見者に与えられる「賞賛」を求めている、ということなのだろうし、最初に発見した=いままで誰も発見していなかった=独創的、という図式がどうやらあるようで、独創的であるためには誰もやっていないことをやらないといけない、みたいな強迫観念もありそうだ。とはいっても、「最初に(=誰もやっていない)」と「独創的」は微妙に違っていて、たとえば、ギネス記録をたくさん持っているけれど、どう見ても普通のおじさん、という人がたまにテレビに出たりするけれど、なぜそのおじさんがギネス記録をたくさん持っているかというと、誰も挑戦しないような、誰も考えもしないような挑戦、つまり誰とも競争しなくて済む挑戦を、わざわざ考え出して記録を作っているからで、それを見たときの、すごいことだし面白いんだけどなんか感じる寂しさというか違和感が、「最初に(=誰もやっていない)」と「独創的」の微妙な違いなのかなと思ったりもする。というか、「独創」っていうのはどういう事態なのだろう。文字通り、ただ「独り」だけが「創り」だしえた、っていうことなのだろうか。こういう事態に対して私(たち)が思い浮かべるのは、「他」と「絶対的」に「独り」だけ「違う」というイメージで、どうしても「違い」の方に気がいってしまうらしく、「違い」にこだわる、っていうのは、「因果」と同じく、私たち(近代人?)にまとわりつく呪いのひとつなのかもしれない。そのふたつが合わさって、「原因(元)に遡って、違いを探す」(原因(元でも基盤でも核でもなんでもいいけれど)は違うはずだ、いや違っていて欲しい、違っているべきだ)という不毛な思考を続けてしまう。。というのを批判したのがポストモダンっぽいけれど詳しくは知らない。「主体」という観念の乗り越えってことなのだろうか。とかあまりよく分からない方にはなしが行ってしまっているけれど、ここ最近は、独創性とかオリジナリティとか気にしなくて済むようになった、というか、たとえば何らかの作品なりなんなりを受容する時に、独創性があるかとかじゃなく、「それは自分にとっていかなる意味を持つか」ということだけを考えればよい、ということに気付いたので、かなり気が楽でうれしい。「それは自分にとっていかなる意味を持つか」というのは言い換えれば、「それは自分の持っている問題意識(考えごと)にいかなる影響を与えるか」ということで、この思考は「違い」ではなく「類似」をベースになされていて、類似を接着点にして自分の問題意識にいろいろなものごとをくっつけていくと、それぞれの違いをも生かしつつ、バラバラのままでは思いもつかなかった意味連関が生まれたりして、うれしい。もうそこでは、自分にとっての自分の問題意識っていうやつもただの部分になって、すべてはもごもごと動いていて、意識のフォーカスの当て方を変えると、全体のなかの見える部分も変わる。意識にはフォーカスというかピントのようなものがどうやらあるようで、全体を見渡すなんてことはどうしたってできそうにないっぽいし、今日は、新装開館した神戸大学人文科学図書館に行って、一昨日は神戸市立図書館までチャリで行って、その途中にやまだ書店という古本屋を発見してベルクソンの「笑い」を買ってみたりして、とにかく今日は神戸大学人文科学図書館にて、新田博衞編「芸術哲学の根本問題」にはいっているハンス・ゲオルク・ガダマー 「美学と解釈学」を読んで、そしてそれと新田博衞「美的経験」とを実際に並べて比べながら読んでみたりして、あとはカント全集の「判断力批判」の上巻の趣味判断についてのところを再読してみたり、ジャネット・ウルフ「芸術社会学」という本を発見したり、新田博衞「美的経験」をコピー機でコピーしたり、した。新田博衞さんは「美的経験」にて、ガダマーがいうように、解釈学によって歴史を理解するように、芸術を理解する、というのはちょっとどうなの?というようなことを言っていて、ガダマー 「美学と解釈学」を読む限りではガダマーは、解釈学の歴史理解の方法が、歴史と芸術それぞれに「言語的側面」があることを根拠に、適用できる、と言っているようで、まあ確かにそれはちょっと強引な気もするけれど、なんらかの注釈を施せば使えるような気もした。といっても、新田博衞さんは芸術は歴史ではない、ということを言っていて、それはそうかもしれない。芸術を受容する人にとって、芸術はその都度生きられるものだからだ。ガダマー 「美学と解釈学」もコピーしようとしたけれど、先客が長くかかりそうだったので、今度にした。新田博衞編「芸術哲学の根本問題」は絶版のようなので、いろいろとコピーしたい。これに入っているハイデガー「芸術と空間」もちらっとみてみたけれど面白そうだった。元々のお目当ては同じく「芸術哲学の根本問題」に入っているジョセフ・マーゴリス「芸術作品の同一性」だったのだけれど、ガダマーのが面白かったので、今日はパスした。ここだけ抜き出すとぜんぜん美学と解釈学には関係ないけれど、ガダマー 「美学と解釈学」にこんな一節があって、これだけノートに手書きでメモしてきた。

或る人が語りかけてくることを、それはすでに承知のことだと言い張って、前もって語りの中途で捉えようと身構えているところには、理解は存在しないのである。

あと、shimaさんのTwitterより。→http://twitter.com/artron

早速ブレてきた。テンションを保てなくなると疲れてくると意味に頼ろうとする。意味の解体が出来ていないと元きた場所よりさらに内に籠るような気がする。意味や理解は切り捨てと抽出なので楽。

「意味や理解は切り捨てと抽出なので楽。」