JRを越えてりそなのATMまで歩いて行ってブックファーストまでまた登って行くだけでちょっとふらっとしたので、かなり弱っちくなっているようだ。桑野隆「バフチン―“対話”そして“解放の笑い”」読了。透明付箋をいくつか。あとで思い出したときに戻りやすいように。引き続きミハイル・バフチン「言語と文化の記号論」にとりかかる。原題は「マルクス主義言語哲学」。この本は訳がふたつあって、「マルクス主義言語哲学」として桑野隆訳が先にあり、その後に「言語と文化の記号論」として北岡誠司訳がある。で、その後「マルクス主義言語哲学」の改訳版が出る。で、どっちも古本屋で見つけたのだけれど、単に「です・ます」調だ、という理由により北岡訳のものを入手。けっこう訳の違いは大きいので、場合によってはふたつ読むかもしれない。六甲のブックファースト保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」を探し評論の棚に収まっているのを見つけ立ち読み。ああ、そうそう、思い出した。こういうことを書くときの保坂和志さんはうっとおしいのだ、なんか。なんでそう感じるのだろう。なんかうっとおしい。なので、ちょっと口直しにちくま学芸文庫ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学」を読む。面白そうだな。こっちにしようかな。いや、でもその前に「言語と文化の記号論」があるしな。ボードリヤール「物の体系」も、「A 機能体系または客観的言説」を読み終えて「B 非機能的な体系または主観的言説」に入るからな。と思って、どっちみち買うんだからということで、保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」をレジへ。1995円です。そのままでいいです。あ、袋も要りません。まえがきで「真に受ける能力」について保坂さんは書いているけれど、ほんとそうで、ついでに批判の無益さについても書いているけれど、これはまあ一般に批判って言われるものの大半は単なる非難であったり、外側からつまり安全圏からなされることが多いからこういうことをあえて書いているのだと思う。「真に受ける能力」については言い方は違うが、東浩紀さんも書いていて、それについて書いたことがあるのでちょっと日記を検索。おっ、あった。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20070912 レヴィ=ストロースも引用していますね。立読みしたことに言及するってすごいな、改めてみると。私たちは「受け流す能力」ばっかり発達して「真に受ける能力」は衰えている。というのはたしかにそうで、私自身そうだ。というか、意識していないとすぐ「受け流す」。どんどんどんどん閉じ篭る。ひさしぶりに読んで思い出した保坂和志さんのうっとおしさも慣れて、というか、他の文章がうっとおしくなさすぎるのかもしれないが、ひとまず第1章を読み終える。さすがに面白い。読まずに本棚にしまいっぱなしの「ペドロ・パラモ」読もうか。そういえばジム・オルークの2枚組「long night」っていうのが出ていた。タワレコ丸ビル店で試聴したらドローンでした。でもドローンって意外に寿命があるというか、そもそも飽きているので飽きようがないというか。2枚組といえば、ASUNAこと嵐君のアルバムも2枚組で出る。「THIS」ってこれまたすごいネーミングだね、嵐君。しぶいな。買いますよ!あ、そういえば闘病中錯乱していたのか、サウンドアートにサウンドでアートする気概などない!「サウンドアート」という形式に則った「サウンドアート」ミュージックだ!「ノイズ」ミュージックと同じく!とか思いました。すいませんでした。でもね、自分の美学を表現するだけならそれはアートではない。ミュージックと同じ回路でもってしか受容できないものはミュージックではないかと。ミュージックを蔑んでいるわけではなくて、明らかにミュージックなのにアートとして居直ろうとするのはダメだよと。なんでどっちもに居場所を確保しようとするの?と。んん、どっちなの、どっちにも居場所がないな、っていうのがミュージックとしても面白かったりするし。すいません。言い過ぎました。kugyoさんの「Literary Valueについて、現時点での考え」http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080920を改めて読んでみてやっぱり面白かったです。「カテゴリ錯誤」って面白いですね。納得できました。なんやかやあやふやにしているぞ、ということでしょうか。たしかにそれがややこしさの源泉だと思います。人間って納得することを優先するあまり、カテゴリ間の混同を無意識に起こしてしまうんでしょうか。『美的経験とそのあとに続く経験(真理の獲得)とを分けるべし』といってもたしかにちょっと無理があるというか、「そのあとに続く経験」は最初の美的経験を再構成するなかでの経験なのであって、その元となる美的経験と切り離せるのか、というふうな疑いが出てきます。西村さんには断絶に見えているのかもしれないけれど、それは断絶なのではなく不連続なだけで、繋がっているような。まあでも切り離せるか否かはそんなに問題でもなくて、私としては、美的経験に基づく事後的な再構成こそが芸術行為だと主張したいところです。むしろ「そのあとに続く経験」こそが芸術行為だと。作者の芸術行為の結果生じる作品をみて、自己のなかで再構成することもまた芸術行為であると考えます。このこともあって、私は芸術価値をモノとしての作品のみ、ないしはそれを生み出した作者にのみ還元することには懐疑的です。むしろ、作品すなわち美的経験の前後にこそ何かあるような。この前後の芸術行為の基盤になるからこそ芸術作品やそれを生み出す作者には価値がある。逆にいえばそれ以外の価値は一切ありません。あったとしても芸術には無関係でしょう、たぶん。あ、いまふと、西村さんが、美的経験とそのあとに続く経験(真理の獲得)を分けたいのがなんとなく分かる気がしました。美的経験は快楽であるけれども、そのあとに続く経験はそうではない、ここで相反してしまう。それなら切り離した方がすっきりはする。こういうとさらにややこしくなるのかもしれませんが、「そのあとに続く経験」にも快楽はありますよね。というか、美的経験(快楽)と真理の獲得(イデオロギー批判?)を分けるのは簡単というか、みんなよくやることなんですが、分ける必要がどこにあるのかさっぱり分かりません。快楽だけ、もしくは真理の獲得だけ、を取り出したいのでしょうか?みんな極度に純粋すぎますよね。(笑)実際のところ、どうなんでしょうね。あと、youtubeにAndrew Deutsch本人の制作によると思われるムービーがいくつかありました。たぶん上げているのも本人のような気がします。