そうそう、pikarrrさんの「pikarrr のブログ」に『2008-07-01 なぜ資本主義は「創造」を強迫するのか 再考』がアップされています。http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080701 pikarrrさんのおしゃっていることとはちょっと違うと思いますが、そしてこういうふうに紹介したあとで「ですます」調だとあたかもpikarrrさんに私が語りかけているようでもあって、全くそういうわけではないのですが、常々おもうことがあって、ひとつに、絵画でも写真でも音楽でも映画でも小説でも詩でも演劇でもなんでもいいのですが、なにかを表現し創造する人間もまたいち消費者であるわけで、その場合の表現・創造の欲求が資本主義の要請によるもの「でない」とはたして言い切れるか、ということがあります。表現・創造の前提、ないしは、結果に、消費という行動が含まれるのを避けられない以上、誰にも言い切れないのではないか、と。ちょっと補足しますと、たとえば、私自身の例なのですが、『いろんなところに行ってコンピュータのハウリング音とそのへんの音をテープレコーダーで録音しその模様をポラロイドで撮影しそのカセットとポラロイドを無記名で不特定多数のひとに向かって配布する』という行為は、カセットとポラロイドとポラロイドカメラ(チェキ)とテープレコーダーとコンピュータとコンピュータソフトウェアと自転車と(水と洋服と食べ物と・・・・と限りなく挙げられますが)、によって成り立っているわけです。そしてそれらを私はどのように手に入れたかというと、様々なお店で貨幣と引き換えに交換してきた(買ってきた)わけで、様々な無数の人々と少しづつモノとカネの交換をしたわけです。そのような無数の(私自身の生存に関わるものも含めれば。食べ物とか)「消費」が私の行為の前提にある。言い換えると、消費の連鎖がそこにはある。そして常々おもうことのふたつめに、その消費のバトンを「どのように」次の人に渡すのかが、芸術の関わる領域ではないかということがあります。「どのような」(かたちの)消費のバトンを次の人に渡すのかが問題ではないのではないか、と。「どのような」を問題にしてしまうと、どうしても既存の商品として流通させるよりほかなく(違いをはっきりさせるためには既存の商品との比較が絶対に必要です)、そのような流通の形式に沿う以上、結局は既存の商品と同じやりかたで消費されることになります。そうなると、商品と作品の違いが一切なくなってしまうばかりか、商品のように使用されたり再生産されたりすることもなく、ただ雲散霧消してしまうことになります。たとえば、ある音楽愛好家がある音楽家の演奏会に行き1500円支払って演奏を聴いたとします。いまであれば、非常に良かった、もしくは、まったく良くなかったなどと友達と話すかブログに書くかして、たいていは終わりです。あとは忘れるか時々思い出すかする程度です。ある音楽愛好家(鑑賞者)は、1500円支払ってある音楽家の演奏を聴く「体験」をまるごと「買った」わけで、その「体験」をどうしようと(良く思おうが悪く思おうが音楽家に感想を伝えようが途中で帰ってしまおうがいちゃもんをつけようが)、ある音楽愛好家(鑑賞者)の自由なわけです。「体験」を貨幣で売る/買う、ということには、そういう暗黙の了解があります。もちろんその暗黙の了解は、商品の論理の流用にすぎません。商品の論理とは、生産者と消費者の関係のことです。買ったものをどうしようが消費者の自由ですし(仮に生産者が、オレのトマトはキリッと冷やして生で食べてくれ!それがいちばん美味いんだ!と言ったとしても、スープにしたりカレーに入れたりパスタのソースにしたりうっかり腐らせて捨てたりする自由があるわけです、それを自由と言うならば)、生産者と消費者の関係に、消費者の義務というものはありません。商品についてのあらゆる責任・義務は生産者にあります。生産者は消費者との、商品についての情報の格差を、商品に対する責任・義務というかたちで相殺しなければなりません(こういう情報の格差を情報の非対称性というらしいです)。消費者は生産者のように商品に対する十全な情報を持っているわけではありません。そのため生産者は商品の情報をできる限り開示しなくてはなりませんし、それ以外にも安全であることや品質の保証をあらゆるかたちでアピールしなくてはなりません。それが生産者の、消費者との情報格差から生じる、商品に対する責任・義務です。では消費者の責任や義務はどうかといえば、ほとんどないに等しく、あらゆる意味で消費者は生産者の上に立っています。モノやコトに溢れた日本では、生産するより消費すること・なにかを貨幣で買うことの方が貴重なわけです(悪質なクレーマーなどはそのような立場の差を利用しているのでしょう)。さて、ここで、私たちのまわりを眺めてみると、あらゆる交換(様々な形態を考えられますが事実上は貨幣とモノゴトとの交換)、はすべてこの論理に従っています。少なくともそのようにみえる。表現・創造の領域、つまり芸術においても例外ではありません。作者に作品の説明をする義務があるのもそうですし、作者に作品の品質を保証する義務があるのもそうです。ひとつのこらず上述した図式に当てはまります。『作者と受容者の関係に、受容者の義務というものはありません。作品についてのあらゆる責任・義務は作者にあります。作者は受容者との、作品についての情報の格差を、作品に対する責任・義務というかたちで相殺しなければなりません(こういう情報の格差を情報の非対称性というらしいです)。受容者は作者のように作品に対する十全な情報を持っているわけではありません。そのため作者は作品の情報をできる限り開示しなくてはなりませんし、それ以外にも安全であることや品質の保証をあらゆるかたちでアピールしなくてはなりません。』いまや、作者と受容者の関係は、生産者と消費者の関係にそっくりである以上に、それそのものになっています。作品は作者によって徹底的に管理されている、管理されているはずだ、というあやふやな前提のもと、作者は生産者になり、受容者は消費者になったのです。作者は作品を媒介に「作者の意図」を受容者に販売していると見なされているのです。ちなみに販売といっても目的は貨幣ばかりだけではありません。多くの場合、作者は受容者からの賞賛・承認を求めています。したがって、作者は「作者の意図」と引き換えに受容者から貨幣か賞賛・承認かその両方を得ることを求めていることになります。といっても、すべての作者がそうであると決めつけているのではなく、すべての生産行為から貨幣や賞賛・承認への欲求を取り除くことは不可能であることを強調しているのです。そして、ヒトに溢れた日本では、生産するより消費すること・誰かを賞賛すること・承認することの方が貴重なわけです(悪質なクレーマーなどはそのような立場の差を利用しているのでしょう。誰かの作品を一方的にけなすことによって逆承認を自ら得てしまう人もたくさんみかけます。誰かの作品をけなすことでその誰かより上に立ったような錯覚を得ることができます)。実際、いまの時代、創造するより受容することの方がむずかしいのです。自分で何かをつくるより、誰かのつくった何かに自分にとっての意味や意義を見つけたり、そのことに対する感謝の意を伝えることの方が何倍もむずかしい。そして、創造のプロはいても(いわゆる芸術家・職人・デザイナー・建築家などなど)、受容のプロなどというものは確たるものとしては存在しません。学芸員やキュレーター、ギャラリストといった職業を思い起こす方もいらっしゃるかもしれませんが、それらの職業はどちらかというと商品でいう、卸売り業者やバイヤー、小売業者に近いように思えます。これはけなしているわけではなく、芸術を社会に流通・定着させる、ないしは、社会での需要を生み出す、もっといえば芸術と社会の接点である、という点においてたいへん重要な仕事であり、(すべてが貨幣の交換に還元されてしまう、資本主義時代の)芸術において、なくてはならない存在です。しかし、学芸員やキュレーター、ギャラリストは作品と受容者をつなげるプロではあっても、必ずしも、受容のプロである必要はないわけで、というよりむしろいちいちひとつひとつの作品(作者ではなく)に時間をかけていたら業務が滞ってしまうかもしれません。このあたりは、個々の方々のバランスのとりようなのかもしれませんが、ただの受容者である私としては、そのバランスを常に意識していただいていることを望むばかりです。あと、研究者や評論家といった職業もありますが、どちらかというと、作品を外側から分析する、または、作品の社会的(共時的)・歴史的(通時的)な位置どりを測定する、仕事が主であり、受容からスタートはするものの、個人的な受容・経験に重きをおいているわけではないように思えます。仕事を公に発表することが前提になっていることもあり(そうでないと貨幣を得るための「仕事」として成り立ちません)、個人的・特殊的なものへの志向よりも、客観的・普遍的なものへの志向が強くなるでしょうし、学問というものは個人的・特殊的なものではなく客観的・普遍的なものだとされているようです。といったように、表現・創造の領域、つまり芸術にまつわる職業について私見を書いてみたわけですが、このようなことを書くのは、これらの職業が芸術作品の受容に近いように見えて実際は遠い、などという無理解極まりないことを主張するためではなく、貨幣を得る「仕事」としてこれらの職業に従事する以上、受容に対して、なんらかの妥協・バランスをとること、が必要になると言いたいだけです。そもそもあたかもプロとアマチュアの区別があるかのような、受容のプロなんていう言い方じたいがおかしくて、すべての人が、職業や立場というひとつの利害の体系を外したところで、ひとりの受容者であり、そのようなすべての受容者に受容の困難がつきまとっていて、とはいえ、受容なきところに創造もなく、理念でも理想でもなく現実に創造はすべての受容/者に支えられていて、もっといえば、「なにを」受容するか、ではなく、「いかに」受容するか、に支えられている、と言いたいわけです。創造と受容が狭い「興味」の範囲のなかだけで繋ぎ止められ消費され回路が閉じられフィードバックしていく状態はそろそろ脱したいわけです。それは無限に貨幣を生み出す交換のサイクルでないばかりか、無限に賞賛・承認を生み出す交換のサイクルでもないし、そんなものをほんとうに私たちは求めているのでしょうか。さてさて、ちょっと横道に逸れてしまいましたが、表現・創造の領域、つまり芸術の社会に適用された、商品の論理に戻ります。すこし口調が馴れ馴れしく感じられるのは、おそらく「さて」を二回続けたからです。芸術社会に商品の論理が適用されうるのは、作品の創造-受容の経路と商品の生産-消費の経路の双方に、情報の非対称性があるからです。情報の非対称性とは、一方の項はもう一方の項に比べ○○○○についての情報を多く持っている、というものです。ただ言い換えただけですが、ここには作品と商品の違いが存在します。商品というのは一般に実用的なものを指すわけですが、たとえば、トマトをつくった場合に、それがどう使われるかまでは予測できないにしても、トマト以外のものとして受け取られることはないわけです。トマトはトマトという(食用)価値としてどこまでもトマトです。もちろん世の中にはいろいろなトマトがありますが、あくまでもそれらの多様性はトマトという(食用)価値を軸に展開しているだけであって、トマトという範疇を逸脱するものではありません。もしトマトを逸脱するトマトが現れたとしたら、トマトとの違いをはっきりさせるためその逸脱の度合いによってそれぞれ異なる名(範疇)を与えられることでしょう。この例で示したかったのは、商品においては、生産者と消費者のあいだでそれが「何であるか」(範疇)がほとんど完全に共有されているということです。そして生産者と消費者のあいだの情報の非対称性は、その「何であるか」(範疇)の共有を前提とした、「どのようなものか」(性質)についての情報の非対称性なのです。トマトという(範疇の)商品における生産者と消費者のあいだの情報の非対称性は、それがどのようなトマトであるか、の情報についてなのであって、それがトマトかナスかキャベツか、といった範疇それ自体についてのものではありません。商品(と貨幣)の交換で重要となる情報は、それが「何であるか」(範疇)ではなく、「どのようなものか」(性質)なのです。よくよく考えたら当たり前のことでしたが、商品(と貨幣)の交換で、何かはわからないけど何かが欲しい!なんて状態なんてなくて、かっこいい傘が欲しい!とか、夏の帽子が欲しい!とか、美味しいトマトが欲しい!とか、今日の夕食の材料が欲しい!といったような状態なのであって、範疇それ自体が問題になることはそもそも有り得ないのでした。それでは作品における作者と受容者のあいだの情報の非対称性はどうでしょうか。一般には、商品における消費と同じく、それが「何であるか」という範疇が共有されたうえでの「どのような」(性質の、ないしは作者の意図の)作品か、という非対称性が存在します。これは音楽作品ですよ、これは絵画作品ですよ、というような範疇についての共通了解があり、どのような(性質の、ないしは作者の意図の)音楽作品か、どのような(性質の、ないしは作者の意図の)絵画作品か、という性質・作者の意図についての情報の非対称性が存在します。しかし、作品によっては、音楽についての音楽、絵画についての絵画、といったように、範疇それ自体に言及するものもありますし、範疇など眼中にないものもあります。この場合、もちろん範疇についての共通了解は崩れてしまうので、範疇それ自体にも情報の非対称性があらわれることになります。こうなってくるともう、作品を介して、範疇についての共通了解を軸に非対称ながらも情報(作者の意図)のやりとりをする、ことさえ困難になってきます。生産者/作者の次元においても、生産者が自分は何をつくっているか、社会的に何であるものをつくっているか、はっきり認識しているのとは対照的に、作者は自分が何をつくっているのか、社会的に何であるものをつくっているか、はっきり認識していません。厳密にいえば、自分と社会の認識が完全に合致することはそもそも有り得ない、という曖昧さを抱えています。このことは、「つくる」ことに特有のブレ、ないしは多様性、の生じる次元が違うことと関係しています。生産者は目的や動機がなんであれ、「○○○」という定まった範疇の商品をつくります。ブレや多様性はその範疇のなかでしか生じません。上述したトマトの例と同じで、トマトはあくまでもトマトであり、それを生産する過程でのブレ・多様性の振れ幅はトマトの範疇内におさまります。そこにおさまらないものが仮にあったとしても、それはまた別の名(範疇)で呼ばれることでしょう。しかし作者のつくる作品は、その目的や動機がなんであれ、定まった範疇を持ちえません。トマトがトマトである(赤くて身のなかのブヨブヨしたものに種が入っていてちょっと酸味があって・・・・・・・・)という形態としての共通項によって範疇たりえているのとは違い、あらゆる作品間にはそのような形態としての共通項による範疇は、厳密には、ありえません。ひとつ例らしきものを挙げるとすれば、世の中には様々な職業がありそれらの職業を隔てるのも範疇であるわけなのですが、人間はなんらかの職業である以前にひとりの人間として存在しています。配管工であるまえにひとりの人間であるわけです。作品という存在も似たような仕方でこの世に存在しています。キックとハイハットとスネアが周期的に反復する音楽は、ミニマルテクノであるまえに、ひとつの音楽作品であるわけです。ここまで書いてきて気付いたことがひとつあります。私が「範疇」ということばで指し示しているモノの集まりそれ自体のことなのですが、どうやら「役割」という言い換えもできそうです。たとえば、トマトという商品についていえば、トマトは、トマトという物理的存在であると同時にトマトという社会的役割でもあります。「トマト」というとき、トマトという物理的存在とトマトという(食用価値としての)社会的役割を同時に指し示しています。トマトがトマトでありながら社会的役割(食用価値)を失うことはありませんし、トマトはトマトである限り、社会的役割(食用価値)を全うするでしょう。トマトという社会的役割(食用価値)を失ったトマトという物理的存在はもはやトマトではなく(「腐った」トマトとか?)、別の社会的役割(食用価値)を示す名(範疇)で呼ばれることになります(腐ったトマトに「腐った」という語がつくように?)。商品とは、物理的存在と社会的役割が分裂することのない不可分の状態だといえそうです。対して人間や作品はといえば、物理的存在と社会的役割を行き来しています。いや、人間についていえば、役割を行き来しているだけかもしれません。職場では配管工であり家庭では父であり夫であり子であり弟であり兄でもある、といった具合に。こう考えると作品もまた役割を行き来しているだけかもしれません。ひとつの作品でも人によって受け取り方が違うように。人間や作品においては、トマトのように、物理的存在から社会的役割が自然に導き出されることはありませんし、ひとつの物理的存在に対してひとつの社会的役割が割り当てられるわけではありません。トマトという物理的存在の特性はそのままトマトという食用価値としての社会的役割を示していますが、人間や作品はそうではありません。人間や作品に目立った物理的存在としての特性はありません。もしそのようなものが生じるとすれば、社会的役割を得てからのことです。人間や作品は何でもあるがゆえに何でもない。その都度、社会的役割(相対価値)を生み出していかなければならない存在です。では、作品の社会的役割(相対価値)をつくりだすのは誰でしょうか(とりあえず人間については置いておきます。いまはあまり関係ないしややこしいので)。いままででいちど述べたように、作品をつくる作者ではなく、作品を受容する人間、すなわち受容者です。作者の蒔いた種に水を与え大きく育てていくのは、受容者にしかできません。作者にはどう頑張っても種を植え苗を育てるところまでしかできません。田植えをして秋の収穫までもっていくのは受容者にしかできません(もちろんただの喩えです。作品受容に収穫といったような分かりやすい終わりはありません)。そのような意味で、いまや、受容者には作者以上の創造性が求められます。表現・創造の領域、つまり芸術の社会における受容者は、商品の社会における消費者ではありませんし、一方的になにかを押し付けられ消費を強要される存在でもありません。おそらく、作品という表現・創造の実現態において、再生産を成し遂げられるのは、作者ではなく受容者だけです。もしくは受容者としての作者だけです。作品は商品とは違い、それ自体に社会的役割(相対価値)が備わっているわけではありません。作者は作品によって社会的役割(相対価値)の生まれる基盤はつくれますが、社会的役割(相対価値)それ自体をつくりだすことはできません。そして言うまでもなく、作品の社会的役割(相対価値)とは、作者の意図などではありません。作品によって受容者のなかに生まれた個別的で特殊な価値そのものを指します。私たちは作者と作品を介しておしゃべりしているわけではありませんし、作者から作品を介して作者の意図を購入するわけでもありません。私たちは作者と作品と受容者という三角関係のただなかにいて、常にその位置は揺らいでいるのです。今日は作者であっても明日は受容者かもしれない。また、作者の意図と反する価値を作品から取り出すことが可能である以上、それを悪だとみなすこともまた難しく、それならば、それをも私たちの糧としていく方がよいのではないでしょうか。作者から作品を介して何か意味のあること(価値)を購入する、つまり、貨幣の交換によって購入するからには何か自分にとって意味のあること(価値)が保証・保障されているはずだ、という商品の社会から引きずってきた受身の発想をやめて、作者や作品それ自体から自分にとって意味のある何かを奪い取る、という発想をしてみてはどうでしょうか。となんだかわからないけれどもやたら長文になってしまって、いったい私は何をしたいのだろうか。誰に語りかけたいわけでもないのに「ですます」調を使うとあたかも誰かに語りかけているようなつもりになるのが面白いなあと思います。