setenv(http://www.setenv.net/bbs/)に、「raster-noton.unit」の告知があって、ラスターの人々は毎年やってきているんじゃないかというくらいだけれども、そのラインナップにsndの名前があって、おっ、と思い、東京だけなのかと調べてみると、ユニットのサイトの紹介文に、『2008年12月、raster-notonは東京、大阪、京都においてalva noto、byetone、snd、pixel、niboによる日本ツアーを行います。』とあって、東京、大阪、京都と書いてはあるものの、大阪、京都の情報とユニットのサイトが繋がってなくて、連携しろよ!と思うが、大阪はまああそこだろー、京都はあそこしかないな、というわけで、大阪の鰻谷sunsui、京都のメトロのサイトにも他会場の情報はなかったし繋がってもいなかったので、連携しろよ!と言いたい。でもなんかライブに行く気分でもないので、どうしようか。大阪も京都も前売り3000円。今日、天神橋筋商店街から京阪シティモールへ歩いているあいだ、ちょびっと考えてみたが、いや違う、梅田の第4ビルだか第5ビルだかから丸ビルのタワレコへ歩いているあいだだった。けれどもそのあいだ考えたことはあとにして、まずもって脱構築ってなんなのか、ということで、テクストの二面性に潜む決定不可能性を足がかりにテクスト構造を内部から自壊させて、それからどうしたいのかは私にはまだよく分からないが、ということで、そのようなアプローチ一般を脱構築と呼び、テクストの二面性に潜む決定不可能性を「宙吊り」だとするならば、それらを逆に辿ること、「宙吊り」そのものが目的のテクスト、は自壊するためのテクスト、ということになるけれど、自壊するためのテクストなる概念がそもそもありえなくて、なぜなら、誰かの目に触れるまえに自壊しているから、というのではなく、「テクストの二面性に潜む決定不可能性を足がかりにテクスト構造を内部から自壊させる」というアプローチ自体がテクストが記された「あと」でしか為されえないからだし、そもそも自壊するためのテクストといえど必ずしも自壊させられるとは限らない。ほいで、自壊するためのテクストとまではいかない、宙吊り=テクストの二面性に潜む決定不可能性そのものが目的のテクスト、については、たんに欄外に「自壊させないでね」と注意書きが書かれた、意味がオブジェクトレベルにおいてもメタレベルにおいても、決定不可能、それを意味不明というのかどうか、なテクストということになるのかしら。いや、なんか違う気がする。とかいうよりも、単純に、分析でも批判でも方法でも行為でも操作でもない、「脱構築」という出来事(守中高明「思考のフロンティア 脱構築」)を、手法としてある対象の読解に向けるにとどまらず、対象への読解ですらなくむしろその対象をつくりだす行為において、利用することの不毛さ(不徹底さ?)が気になるのかもしれない。そして、それよりも、問題は、エクリチュール(書きことば)がパロール(話しことば)の論理で捉えられてしまうことで(というのはいままでいろんな人が散々言ってきているけど、たぶんそんなに多くの人には届いていない)、テクストの二面性はたぶん言語の「ある二(でも三でも四でも五でもいいが)項間の(情報・意味の)伝達・了解」という側面を除外(宙吊り?)するところで成り立っていて、「ある項と項のあいだの(情報・意味の)伝達・了解」が主な役割のパロールの次元においては、テクストの二面性は基本的に現れないし、そういうことをすると、いまでいうKYになってしまうし、「で、オチ(情報・意味)は?」と突っ込まれることになる。つまるところ、エクリチュール(書きことば)がパロール(話しことば)の論理で捉えられてしまうということは、この「で、オチ(情報・意味)は?」という突っ込みだと思うのだけれど、エクリチュールにおいては(そうでない場合もあるけれども、ひとまずいまのはなしの文脈でいうと)、オチはテクスト自体ないしはテクストを読むあいだ、なのだが、メタレベル(意図の伝達)=パロールの論理に立つと「で、オチ(情報・意味)は?」とどこまでも突っ込み続けることができる。しかもここでいうオチ(情報・意味)とは、メタレベル(意図の伝達)=パロールの論理に立つ限りのものでしかなくて、だから保坂和志さんは「小説、世界の奏でる音楽」の「まえがき」で

本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。

と書いているのだろうし、とはいえ、ここで書かれている「真に受ける」ことというのは、作者もまた「自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと」をも含まれる。作者もまた、自分の作品に対して「自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと」。なにかこう、なんだかなにかしらの主張=オチがついた感じでこれはこれでどうなのかと思うけれど、これは言うまでもないことだけれど、私は私の主張をしたいわけではないというと少しウソになるかもしれないけれど、少なくとも私は自分の主張にそんなこだわりはないというか、執着はないので、それは違うよ!と言われて、おおそうか、と思えば、いくらでも改宗するし、分からない、と言われればできる限りことばを費やしたい。むしろそうやってことばを費やすことで、自他ともになんらかの変化が生じていくことが楽しいので、「で、」なんだろう。なお、Re-TATTAKAさんとのやりとりで、『可能性としての「宙吊り」と、なんらかの表象・現象として現された「宙吊り」との違い』と書いたあとに、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」、「第二章 二つの手紙、二つの脱構築」を読み進めていると、脱構築をふたつのスタイルに区別する、ゲーデル脱構築デリダ脱構築、というものが出てくるけれど、このふたつがそれぞれ、なんらかの表象・現象として現された「宙吊り」と、可能性としての「宙吊り」に対応するのかどうかは分からないし微妙なところ。でも、なんらかの表象・現象として現された「宙吊り」が、極度に形式的で抽象的である(かつ、否定神学的である?)、という対応関係は、すくなくともあるような。でもなにかをなにかとの類比や対比で理解するのが危険なのもあるし、どうやろか。