youtubeでパフュームを聞きながら、保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は「10 遠い地点からの」を読み終わって、ひととおり読み終わる。すぐ読み返してもいいけども、あとがつかえているのでまたあとで。ひさしぶりにママレイドラグと検索してみたらば、ホームページがリニューアルされていて、「MAMALAID RAGの活動を再開、しつつある。」とのことで、よろこばしい限りだが、MAMALAID RAG田中拡邦さんの趣味は「最後までバンドに居残ること」。同郷でひとつ年上だな、この人。そしてまたひさしぶりにhalcaliと検索してみたらば、新曲が出るらしく、これまたyoutubeでライブ映像を観てみたが、ちょっとどうやろ、どうやろか、この曲は。誰がプロデュースしたのか。北浦正尚さんという人らしく、ぜんぜん知らないが、bird「Sparkles」のPVに出てくる建築物はどこのなにだろうか。またあの人か。なんて名前だったか。度忘れした。誰だっけ。最近自伝を出した。曲はたぶん冨田恵一さんっぽいな。「Sparkles bird 美術館」で検索したらすぐ出てきた。群馬県立館林美術館で、設計は誰だ。曲は冨田恵一さんだ。設計が誰かが群馬県立館林美術館のサイトを見ても分からないので、ウィキペディアによると、

林市郊外の水耕田跡地に建設された建物は芝生の広い敷地を囲むように配され、非常に美しい。設計は第一工房(代表:高橋てい一)。2004年第17回村野藤吾賞を受賞している。 また、付近には「館林市彫刻の小径」と名づけられた散策路があり、多々良沼公園の生活環境保全林に沿って、多くの彫刻が設置されており、平成13年現在38体を数える。

とのこと、と思ったら、群馬県立館林美術館にもさらっと「H8.12.6 新県立美術館基本設計作成業務を株式会社第一工房に委託 」と書いてあった。どうでもいいけど「ファサード」ってなんやろかとずっと思っていて、思っているだけで調べようとも思わなかったけど、いま調べてみる。ウィキペディアによると、なんのことはない、

ファサード(façade)は、建築物の正面(デザイン)を指す言葉である(仏語に由来。faceと同根)。最も目に付く場所であり、重要視される。

とのことで、別に正面でいいじゃん、というと怒られるぞ。気をつけろ、気をつけろ、うたの文句に気をつけろ、と高橋悠治さんは、yuji takahashi + keiichiro shibuya + maria「ATAK007」の15曲目、1分53秒あたりで言っている。なお、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」、「第二章 二つの手紙、二つの脱構築」の冒頭にこんなことが書いてあって、

ド・マンによれば「脱構築」とは、テクストをオブジェクトレベル(コンスタティブ)で読むかメタレヴェル(パフォーマティブ)で読むか決定できない、その決定不可能性を利用してテクストの最終的な意味を宙吊りにする戦略にほかならない。そして「脱構築」はその決定不可能性にこそ、テクストの開放性や他者性を見ると主張している。

これは、http://d.hatena.ne.jp/k11/20081021で書いた

たしかに「脱構築」(という手法というより身振り?読解法?仮に読解法だとするとあらかじめ読解法が仕込まれた芸術作品ってことになるのか?)が芸術に応用(援用?)されるのは分かるというか、分かるけどちょっと危険というか、たんなる強弁になるだけの危険性があるような。いや、まだよく分からないけども。別に「脱構築」に限らず、「意味」とか「因果」とか「自我」とかを相手にしようとするとき、たんなる強弁でしかないように見えることがある。そう「言ってる」だけにしか見えないという。言ってることを客観的には確認できないから。でも確認できないのが悪いんじゃなくて、そうならざるを得ないわけで、そこが難しいところ。でもほんとうにそうならざるを得ないのか?と思ったりする。いや、確認できないからというよりも、そう「言ってる」範囲内では言っている通りなのだけど、その範囲を出ればそうではない、のが気持ち悪いのだ。出れちゃうのが問題なんじゃなくて、「言う」と「範囲」がセットなのを意識しないのが悪いのかしら。

ということにも繋がるのだけれど、意味の宙吊り→開放性・他者性、というのを私はどうも信じられない。これこそ強弁というか、たんなるダブルスタンダードというか、無時間的な論理空間でしか成り立たない思考というか、つまり、開放でも他者でもなんでもなくて、でも現実にはなんでもないわけではなくて(なにかが「現実に」存在するとき、それはその都度「なにか」にならざるをえない)、そういうあやふやさもさることながら、さきほどの引用部分に続き、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」、「第二章 二つの手紙、二つの脱構築」より

テクスト空間そのものなど存在しない以上、「間テクスト性」や「著者性の脱構築」といった術語によるその神秘化は、現実には、さまざまな世俗的欲望やイデオロギーを隠すものとしてしか機能しないからだ。

というのは、まさにそこが気持ち悪いところで、結局、意味の宙吊り→開放性・他者性という操作が、「さまざまな世俗的欲望やイデオロギーを隠すもの」ないしは、たんなる責任逃れにしか使われないのであれば(神秘化=悪い意味での「禅問答」みたいな)、そんなものに関わっているヒマなどないし、つまり、「脱構築」的な身振り一般にはおうおうにして、意味の宙吊りの結果生じるとされる、開放性や他者性に唯一曝されない人間=その作者がいて、これは一体どういうことなのか、という問いはそのまま私自身にはね返ってくるので、どうしたもんかということを最近は思っていて、どうも「宙吊り」は有効な手段ではないようで、それ以外に、オブジェクトレベル(コンスタティブ)(「これ」はどういう意味か?(というくらいの意味かしら))とメタレヴェル(パフォーマティブ)(「これ」はどういう意図でなされたものか?(というくらいの意味かしら))の対立を解消する方法がないかと思う。いや、別に解消したりそういう対立自体を宙吊りしたりする必要はなくて、なんだろう、その対立が成り立つ思考の様式とはいったいなんなのか、という。うーむ、どうなんやろか。なにかから抜け出ようとするとき、つねにこういう問題が生じる。ならば、抜け出たい、という欲望がいったいなんなのか、を考えた方がいいのかもしれない。