14:30の、と書くところで、携帯で書いてるから数字から漢字に文字モードを変えてなくて、14:3055555となる。な行が5なので、な行の五つ目で55555。本日岡山のかじこはオープンして、でも明日の午前からおじさんのマンションの自治会に出ないかんのと今夜の別件とがあるため14:30のバスで大阪駅に向かっている。いま16:59。かじこに設置というか置いていったものは、作品とかいうほど輪郭ははっきりしてなくて、逆にはっきりしてたら作品かどうかは分からんけど、ふつうならワークショップ形式でやりそうなことをムリヤリ無人でやろうとしてる感じで、こういう場合、意図なり出来事なり内容なりとそれを体験する観客のあいだ、もしくは装置と行為のあいだのインターフェースを工夫するもんなんだよな、と今日の朝方に思った。いま言う意味でのインターフェースはハードや装置としての物理的なインターフェースのことで、そっち側についてはやはりだいぶ疎い。だからなのか、だからだと思うけど、ここ何日かひたすらソフト、ことば、概念のほうでインターフェースを工夫しようとしていて、その場合ひろく有効なのはある物語、ストーリーをつくることで、ちょっと行きかけたが、これも不得手なのでムリだった。物語があれば物理的なインターフェースも作りやすいとは思う。とはいえ結局のところ、いわゆる物語じゃなくても、ことばによる行為や体験の絞り込みなり限定である限り、どんなものでも物語と言える気がしなくもない。それにしてもおもしろかったのは、自分はつくづく、概念なり体験なりを見せ方・表面の物理的な次元・インターフェースで整理していく思考様式への切り替えが苦手ってことで、これはやっぱり音楽っぽい思考様式だからだと思う。そう考えるといわゆるサウンドアーティストにもふたつのタイプがいて、美術タイプと音楽タイプと。自分の場合は、サウンド自体やサウンドとその他の関係じゃなくて、サウンドの記号性や抽象性をいじっている気がするので、サウンドをうんぬんというより、ことばや記号をうんぬんという方が、言い方としては正しそう。強いていうなら方面としては美術のほうなんかもしれんけど、表面の扱いは苦手だし、そもそも視覚的なセンスが圧倒的に、ない。いちばんどうにもならないタイプかもしれない。いま伊丹のあたりを過ぎて渋滞中。