ふと思い立って、Utah Kawasaki「Songs I Played」を聴いています。なんというか、「DSP(デジタルシグナルプロセシング)」というテクノロジーへのものすごく独特な応答。DSPというとなにやらエフェクター的なイメージもあるけれど、サウンドファイルの構造そのものへのアプローチも可能なわけで、むしろそっちの方が面白い。max/mspに可能性があるとするなら、そのへんだろうなあと思って、実際、ファイル再生オブジェクトを酷使する方が面白かったりして、とはいえ、ibookは壊れてしまったし、そもそもかなり前からmax/mspは触ってない。Utah Kawasaki「Songs I Played」はミニCDだから早々に終わってしまっていまヘッドフォンから聴こえてくるのは33.3「33.3」。いまどうしているのやら。カール・マルクス資本論 1」をものすごく久しぶりに読む。いまは第一部 資本の生産過程 - 第一篇 商品と貨幣 - 第一章 商品 - 第三節 価値形態または交換価値 - A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態 - 2 相対的価値形態 - b 相対的価値形態の量的規定性を読み終わったところ。こういうふうに章とか節をまっすぐ並べると自分がいまどこにいるのか分からなくなって面白い。でも目次を見れば一目瞭然。仮に、芸術作品もまた、マルクスのいうような「抽象的人間的労働」「人間的労働一般」を軸に(相対的に?)価値が顕れるのであれば、はなしは簡単だけれど、なんとなくそうは思えない。とはいえ、マルクスのこの「還元」自体をまだよく分かっていないのでなんともいえない。稲葉 振一郎「「資本」論―取引する身体/取引される身体」は今日の夕方に読了。(広い意味での)「身体」が「資本」。「身体が資本」っていうときの身体は健康と同じ意味だけれど、この本ではもっと広い意味に捉えられている。ひとりの人間が個人として市場経済に参加するときのクッションというか「あいだ」に挟むものとしての「身体」。これがあってはじめて、さらに身体以外のものをいろいろ挟めるようになる、というような。保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は「5 ここにある小説の希望」を読み終えたところで、アマゾンから過去に高橋悠治の本をチェックしたか購入しただったかした人にお送りしていますとのことで、高橋悠治「きっかけの音楽」のご紹介が。ほいで、そこに載っていた本の表紙画像を見て、変な装丁だな、、と思って、だからというわけではないけれど、なんとなくみすず書房のサイトに入ってみたところ、服部一成さんの装丁で、ここ数年ずっと思い続けていたけれど、服部一成さんは変だ。明らかに。と、ここで、というかさっきすでにそうだったのだけれど、33.3「33.3」が終わったので、Lee Morgan with the Hank Mobley Quintet「Introducing Lee Morgan」に。ヘッドフォンは外す。解説によると、このアルバムはハンク・モブレーという人のリーダーアルバムとして録音されたにも関わらず、リリースする際にリー・モーガンの人気の高さを知ったレコード会社によりリー・モーガンのリーダーアルバムとしてリリースされた、とのこと。だからかどうかは分からないが、というかだからだと思うけれど、リー・モーガンの曲はひとつもない。なので今度はリー・モーガン自身の曲が入っているアルバムを欲しいと思ったりもする。「Introducing Lee Morgan」を録音したとき、リー・モーガンは18歳と4ヶ月だったらしい。なので、サイトで画像を見るよりも実物を見てみようとのことで、六甲のブックファーストに行ってみたものの棚にはなかった。音楽関係の棚では大友良英さんと菊地成孔さん関係の本が目立つように置いてある。なので画像をみた限りで思ったことは、やはりとにかく変ということに尽きるけれど、なにがどう変かというと、まずはとりあえずみすず書房高橋悠治「きっかけの音楽」のページを見てもらうとして(http://www.msz.co.jp/book/detail/07417.html)、とりあえず具体的な変ポイントを挙げるとすれば、まず字間が変。ふつうなら「きっかけ」の「き」と「っ」と「か」のあいだはもうすこし詰める。これは服部一成さんの特徴なのか、他のデザインしたものを見てもほとんど文字間は詰めていない。プロなのにわざとかどうなのか微妙なところがまず変。次に、四角と文字との間隔が変。「きっかけの音楽」というタイトルは水色の四角で囲まれているけれど、上下の間隔が変だしなにより左右の間隔が均等でない。「き」と左の四角の一辺のあいだと「楽」と右の四角の一辺のあいだが微妙に違う。そして「高橋悠治」という著者名は緑の四角に囲まれているけれど、左右の間隔が微妙に違う。「高」と左の四角の一辺のあいだの方が「治」と右の四角の一辺のあいだより少し長い。このふたつの変に共通するのは、ものすごく微妙にズレている、ということで、もっと大幅に間隔が違ったりすれば、そういうデザイン処理として見れるけれども、この場合、わざとなのかそうでないのか微妙なところが変。字間もそうだし間隔の微妙さもそうなのだけれど、最近の服部さんのデザインのほとんどはなんだか妙に素人っぽい。しかし、かっこよくしようとしているけれどやっぱりダサいという素人っぽさでもないのでややこしい。かっこよくもないがダサいわけでもないし、まあダサいといえばダサいけどしかし新鮮でもあるわけで、妙にこちらの感覚を宙ぶらりんにする。おっ、いま気付いたのだけれど、高橋悠治「きっかけの音楽」の装丁の要素、文字と四角について、私は文字を囲むもの、飾るものとして四角を考えていたけれど、ひょっとしたら服部さんはそうではないのかもしれない。「きっかけの音楽」、「高橋悠治」、「みすず書房」という文字要素はおそらく左右がセンターに合わされていて、ふたつの四角だけがセンターから微妙にズレている。ひょっとしたら、ふたつの四角は四角同士でまず関係が作られていて、文字は文字同士でまず関係が作られていて、そのあとに文字と四角の関係がくるのかもしれないということで、とかいうのは考え過ぎのような気もして、つまるところ、文字と四角をぜんぶ左右センター揃えにしちゃうと揃い過ぎて気持ち悪いからズラした、というだけかもしれなくて、とはいえ、この微妙なズラし方は一体なんだ、という違和感はずーっと残る。配色について触れなかったのは配色以上に文字と四角が気になったからで、といっても、ひとつ気になるのは、背表紙のタイトルがなぜいきなり黒ベタに白ヌキなのか、著者名の文字と四角の配色がなぜ表紙と変わるのか、というところで、やっぱり変。というわけで、変にプロっぽい・それっぽい(つまり過去の遺産に忠実)デザインよりも、服部さんのような良くも悪くも不安定なデザインの方が刺激が多くて、見るのが楽しい。といっても、服部さんの場合、かなりギリギリまで不安定な気がする。これでクライアントのOKを引き出せるのがまずすごいな。。日付でいうと一昨日、10月5日に書いたこと、とりわけ木下さんのことばを引用して書いたことについて、ちらっと今日、ややもすると、顔も名前も知らないような「誰か」(大衆??)ともいうべき存在に向かって喧嘩を売っているようにも見えなくもないけれど、顔も名前も知らないような存在に向かって喧嘩を売ってもぜんぜん意味はないし、そういったことをする場合おうおうにして「自分以外は全てバカ」になってしまうわけで(自分が喧嘩を売りやすいような想像上の存在を捏造してしまうわけで)、おうおうにして、というよりほとんどの場合そうだと思うけれども、それはやっぱり気持ち悪いわけで、喧嘩を売るなら自分自身か、それとも、顔も名前も何を考えているか(おおまかにでも)も知っている人の方が有益。さっきお風呂に入っているあいだにいろいろ書き忘れていたことを思い出して、ついさっきテレビではジャック・バウワーさんがおっさんを脅していた。話さないと痛い目を見ることになる!とかそういう感じで。昨日はみつ君と遊ぶ。月森に行って口笛文庫に行ってりずむぼっくすに行ってメシ屋を探して放浪して甘夏食堂が閉まっていたので、その近くの元スープカレー屋さんに行く。今は喫茶店みたいな感じで、夜はきまぐれディナープレートとカレーがある。私はダルカレー、みつ君は野菜カレー。スープをおまけでくれた。カレーもスープも美味しかったが、スープは味が濃かった。パンにつけて食べるものなんだろう。ここの主人はパン屋をやっていたらしい。天然酵母のパンも売っている。今度買ってみよう。さっきテレビではジャック・バウワーさんがおっさんを脅すシーンが前回までのあらすじとして流れていて、痛い目を見ることになる、ではなく、痛い目にあわせることになる、だった。2話連続放送のようだ。月森では、私はカフェオレ、みつ君はコーヒーのマイルドとホットケーキ1枚。いまジャック・バウワーさんが脅しているおっさんに見覚えがあるなあと思ったら、ERに出ている人だ、たぶん。りずむぼっくすにはLee Morgan「The Sidewinder」、「TOM CAT」があった。「TOM CAT」にはたしかArt Blakeyがドラムで参加していた。という情報をりずむぼっくすで「TOM CAT」のジャケを見て得た。実のところ、『保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は「5 ここにある小説の希望」を読み終えたところで、』と書いたあとにこの章で気になったところを引用しようと思っていたのだけれど、うっかりすぐ高橋悠治「きっかけの音楽」のはなしに移ってしまったので、書きそびれてまた今度にする。