高橋悠治「音の静寂 静寂の音」クセナキスにまなんだこと より

それから30年あとに、パリのスタジオで、
コンピュータが一晩中計算してつくりだした一分たらずの音響を再生し、
データを一つだけ変えて、再計算をセットしながら
「有効な組み合わせがみつかるまで、データをひとつひとつためしている」
と言われたのを、
偶然を越えて顕われる普遍ではなく、
落ち込んでしまった時空の迷路からぬけだすための道しるべを、
古代哲学史を反転しながら
「偶然」から原初の「存在」にもどるメービウスの帯をもとめているのか、
とあらためて思ったが、これも、
もう一つの誤解なのでしょうか。
確率とは、パスカルにとってのように
神あるいは絶対的存在にいたるための賭けだったのか。

佐々木敦「テクノ/ロジカル/音楽論」を
パラパラと読んでいて出てきたこの箇所を読んでいて
(いちおう引用の改行など高橋悠治「音の静寂 静寂の音」の方に準じた)
量子力学におけるトンネル効果を思い出した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C
wikipediaの説明を読んでもなんだかよく分からないしどっちかといえばこっちかもしれないが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E8%A6%96%E7%9A%84%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C
橋元淳一郎「量子力学が見る見るわかる」より

シュレーディンガー方程式の解は複素数になるが、それは実際に観測したときに物質が存在する確率をあらわす

というシュレーディンガー方程式の確率解釈あるいはコペンハーゲン解釈に基づくと

厚さ10メートルもあるコンクリートの壁に車をぶつけたとき、時速60キロメートルくらいでは、現実問題としてとてもその壁に穴をあけることはできないが、量子力学によれば、ある確率でもって車は壁を突き破ることができるのである。ただし、その確率は1兆×1兆×1兆分の1くらいなのであるが・・・・・。

というふうになるらしく世界(というよりあらゆる存在)を(が?)確率的なものだと考えた時の
「確率」への向き合い方というかひとつの態度としてクセナキスの例は興味深い。
そして高橋が言う「偶然を越えて顕われる普遍」はおそらくジョン・ケージのことで
これも「確率」への向き合い方というかひとつの態度として興味深いと思う。
クセナキスは確率を確率のままひとつに定位することにこだわっていて
ケージはまるごとぜんぶ(つまり無定位)にこだわっている気がする。
クセナキスは「確率」の世界を自分で体験していくことに意味があると思っていて
ケージは「確率」の世界に[改めて]触れるだけで十分だと思っているのではないか。


昨日、□□□「golden love」を買って聴いているが
これはもう刮目し瞠目すべき傑作、
そして罪深きポップアルバムであり
今メジャーシーンに最も放たれるべき音が
ついに放たれたとまじで思わせてくれるアルバム。
これを渋谷系と呼ばずに何を渋谷系と呼ぶのか、
というほど、今夜はブギーバックな雰囲気に溢れており、
ヒップホップとJポップの交差する最前線であると
ある覚悟を持って言い切ってしまっても構わないだろう。
彼らが元々持っているヒップホップ感とキラキラ感が
ブレイクビーツとJ-POPの未来に明るい光を差し込んでくれた。
ハルカリいとうせいこう、サブマリンの面々も
このアルバムの突き抜け感=メジャー感に一役買っている。
佐々木暁によるある意味キッチュなある意味趣味の悪いアートワークも素晴らしい。
というのは「□□□ golden love」でググって出てきたサイトから
適当にコピペして出来た文章で悪ふざけ以外の何ものでもないかもしれないが
まあこれはある意味みんなの意見なのであってそういう意味では客観的な文章である
とか信じられるほどには私は言語とその論理とその制度を信じていないけれども
このアルバムを聴いているあいだ、自分が持っている
インプロとか電子音楽とかそういう実験的とされる音楽のCDを
全部売ってしまったらすっきりするだろうなあとは思った。
中途半端にポップで中途半端に誰かの真似をするものより
音楽もアートワークもよっぽど□□□の方がいいとも思った。
というかなんでみんな「書きたがる」のかと思った。
私もそうだが。
アンガージュマンの一環?