やたら寒い。うっかり布団でうたたねして気付いたら0時でつけっぱなしにしていたテレビでは堂本兄弟がやっている。今日も駅のブックファーストにちょっと行った以外は自宅療養。ちょっと遠出してみて思ったのだけれど、なんだか体力が落ちている。熱は完全にひいた。と頭痛もひいた。喉がまだ痛い。昨日引用したオクヤナオミさんのことばがまだひっかかっていて、たぶんなにか核心をついているからだろう。オクヤナオミ「余白は芸術に関係がない-が、ひとつのフォルムである。」のあとがきより。

美術家というのは、基本的にひきこもりの傾向の強い人種で、他者とのコミュニケーションが成立しない。世間と断絶した状態、孤独で絶望しているという条件のなかで会話しようというのが美術家の美術作品の魅力である。

そもそも最初から、これがオクヤナオミさんの発言である、というのはどうでもよくて、これはたぶんもっと広く一般的な芸術家についての認識であるだろうから気になる。最初の一文はにんげん「美術家」について、次の一文は美術家の「美術作品」について。だいたいの意味としては、世間や他人と断絶しがち、孤独で絶望しがちな美術家はそれでもなんとか「美術作品」を介して世間や他人と会話しようとする。その相反するギリギリの試みが魅力である。ということになるかと。でも、ひきこもりがちでコミュニケーション下手なことを美術家(ひろくは芸術家、すべてのなにかの「作品」をつくる人々)の性質・属性のように考えてしまうと、逆に美術家だからコミュニケーション下手でよい、ってことになってしまう。というかそれ以前に上述の文章では、「現実の」コミュニケーションと「美術作品の」コミュニケーションを分けて考えているが、現実にコミュニケーション下手な人間が美術作品でコミュニケーション上手、なんてことはありうるのか。先の文章は、「自分の作品が他人に理解されること」を「会話」だと暗に設定しているような気がする。そこにはことばなき会話がある、と。自分の作品と他者の会話が。これは別におかしくない。が、すこしひっかかるのはその会話の主体である。ここではおそらく、他人と実際の会話をするのは「自分の作品」であるにも関わらず、他人と「自分」の会話であるように考えられている。作品=作者である。『〜という条件のなかで会話しようというのが美術家の美術作品の〜』というふうにあえて「美術作品」の前に「美術家の」と置いてあるのはそういうことだと思う。ほいでここで出てくるのは以下の問題、「作品、すなわち、作者、であるか」ということで「作品=作者なのか」ということ。私自身の実体験の感覚でいえば、他人と会話するのは自分の作品である、というのはそうだけれども、私もまた自分の作品とは他人である、ということで、私もまた自分の作品と会話することしかできない。そもそも自分の作品をわが身のごとく理解しているわけではないためそうならざるをえない。なんらかの方法によって表現、表に現されたものは、作者とは別の存在なので、どうしても予想できない違う動きをするだろう。というか、そもそも、観客と作品の会話というより、作品に対する観客(作者も含む)の独り言しかないのであって、会話なんてないのではなかろうか。そういえば、むかしotosoraという音と映像のバンドをやっていたころ、たまにライブをするのだけれど、ギターとかコンピュータを演奏しながらずっと気になっていたことがあって、「これ、お客さんに伝わってるのかね」ということで、ずうううっとそれが気になっていた。で、ずうううっと伝わっていない感じがしていた。拍手も形式的なものに思えた。で、その果てに思ったのは「伝わるとか伝わらないとかではないんじゃないか」ということで、だいたいなにを伝えるというのか。私たちは、観客の独り言の対象を提供する、つまり観客の独り言のための生贄なのではないか。というふうに思う。というわけで、引用文のような美術家、現実にコミュニケーション下手だけれど作品においてコミュニケーションを試みる、という図式は、どうも私自身には当てはまらない。むしろ逆で、私自身はコミュニケーション下手かどうかはともかくいろんな人の話を聞きたいし関わりたいけれども(もちろん限界はある)、作品やそれに類するものにおいてはそもそも最初からコミュニケーションなど念頭にない。よって、私は美術家(芸術家)ではない。やったやった。□□□の新しいアルバムが出たので買わないと。おおはた雄一さんの新しいアルバムも出ていた。試聴したらいままでとすこし違う感じ。でも家で通して聴いてみないとなにも分からない。あとなぜ木村カエラさんはいつまでもロック的なものにこだわるのか。なんとなください気がするのだけれど。昨日の夜中やっていたモディリアーニの映画はちょっと面白かった。ピカソが成金っぽかった。モディリアーニに、お前と俺の違いはサクセスだ!とか言い放っていた。サロンにわざわざ「モディリアーニ」なんて作品を出したりしていた。意地悪な奴だ。でもモディリアーニピカソの個展のポスターに落書きしたりしていた。いろんな画家がいて喧嘩したりして活気があるのはいいことだ。ユトリロもいた。