今日はすこし早く武雄温泉に行ってみたところ、時間帯が違えば顔ぶれも違う。あつ湯の方の湯船にいちばん近い席に座って頭を洗ったり顔を洗ったりしていると、どうやらここはいつも来ている常連のおっちゃんたちのなかのひとりのおっちゃんの指定席らしく、父ちゃんからそのことを教えられささっと終わらせる。私が洗っているあいだそのおっちゃんは違う席で歯磨きをしていたけれど、父ちゃんが空きましたよ、と教えてあげると、おお、よかとけよかとけ(いいのにいいのに)、というようなことを言っているであろう光景がぬる湯の方の湯船に入ろうとしている私に見えた。うっかり常連のおっちゃんたちのいつもの席に座ってしまうと申し訳ない気持ちになる。なんとなく席が決まってしまってそれ以外だとなんとなく気持ち悪いというのはなんとなく分かる気持ちで、今日は靴箱のいつも私が使う場所(36番だったか)が空いてなくてちょっと気持ち悪かったから。たぶん靴箱の場所だけでなく、ドアを開けて玄関に入りサンダルを脱いで靴箱に行くまでの一連の動作そのものが靴箱の場所とともに決まっているようで、いつもの感じでドアを開けいつもの感じで玄関に入りいつもの感じでまず右足のサンダルを脱ぎ左足のサンダルを脱がないうちに右足だけでケンケンと靴箱まで進むとちょうど目の前に36番の靴箱が見える。昨日は武雄のマルキョウというスーパーで、「ーグイッとひと煽りー天狗の如く」という商品名のパッケージに鼻の長い天狗のイラストが書いてある栄養ドリンクをみかける。うーむ、たしかに、改めて、自分はどういうつもりでcom+positionを見ているんだろう、と考えたらよく分からなくて、きょう一日仕事をしながら考えてみて、ぜんぜん分からないのでちょっと問いを変換して、どういう気持ちで会場に向かっているかな、と考えてみて分かったのは、ワクワクしているなあということで、どんなことがみられるだろう、とワクワクしている。あと、なにか具体的な目的や意識を持ってみているかというとそうではないけれど、それはcom+positionで行われる演奏それ自体に含まれる目的や意識を自分のなかに受け入れるためにそうしている。もちろんこれはcom+positionに限らずなにをみるときもそうしたいと思っていて、なにか具体的なものを期待していくと、それが基準になってしまって、つまり先入観ということだと思うけれど、その自分の具体的な期待を基準にしてそこで行われた・起こったことを測ってしまうので、よくないかなと。でもそういう主観的な期待としての基準がなくなることは絶対にないのだけれど。。あと、そうすると、基準のないところから、自分なりの価値を立ち上げないといけないので、大変というか、自分ができているのかどうかは怪しい。あと、com+positionで江崎さんと木下さんとみつ君がやっていることは、音楽なんだけれど、音楽を大幅に越えて溢れだしてしまうなにかがあって、こういってしまうと陳腐だしそんな適当なことを簡単に書いたらよくないかもしれないけれども、文字通りの意味で、思想というか生き方というか考え方があって、それに影響されるために行っているのかもしれない。影響はされてもそれそのものになることはできなくて、つまり私が江崎さんになったり木下さんになったりみつ君になったりすることはできない、ということだけれど、そういうつもりで、表現はかなりおかしいけれど「持ち得ない」と書いたのだろうし、私は私以外の誰かにどう頑張ってもなれない、、けれども、誰かに影響されることはできるしそれだけが私の希望である、ということを言いたかったのだと思う。ああ、ひょっとしたら、みつ君のいう「どういうつもりで」というのは、どういうつもりでcom+positionで見たことを自分の日記に書いているのか、ということかもしれなくて、たしかにここには重大な問題がある。このはてなダイアリーは誰でもアクセスして読むことができる設定になっていて、不特定多数の人がここを読む可能性があります。そして私が自分の一回限りの体験(たとえばcom+positionを見たこと)について自分で書くとき、それはあくまでも主観的で、「私(小田寛一郎)」というフィルターがかかっているというよりも、「私(小田寛一郎)」という狭いレンジのなかでの自分の一回限りの体験の再現にすぎません。再現といっても自分のあたまのなかで思い浮かべるのではなく、こうして誰でも読めるかたちで記している以上、再生産といわなければならないでしょう。そしてもちろん、その再生産が元の体験(たとえばcom+positionで起きたこと)を越えることは原理的にありえません。元の体験から自分の分節に従って拾ってきたことをことばで再構成しているにすぎないからです。体験(現象)はことばによる分節(というより、理解?)に先立つものであって、ことばとは別の次元に属します(といってもことばによる分節が無意味だとは思えませんが)。そして、重大な問題というのは、そのいわば、元の体験の縮小再生産である、私のことば(の綴られたこのはてなダイアリー)によってしか、元の一回限りの体験について知ることができない人もいるだろうということで、そうなってしまうと、元の体験それ自体を参照することができないために、元の体験それ自体と「私(小田寛一郎)」という狭いレンジのなかでの縮小再生産が同一視されてしまう恐れが多いにあるということです。誤解をさらに誤解してしまう、曲解をさらに曲解してしまう、そしてそれを修正する機会は永遠に失われている、、ということがかなりの確率で起こりうるということです。そしてこのことによって被害を被るのは、再生産者ではなく、元の体験およびその作者であるということが一番大きな問題なのです。と、いささか極端な言い方をしてみたけれど、これは、批評であっても感想であっても、多かれ少なかれ、一回限りの出来事についてなにかを語る、ということについてまわる問題で、一回限りの出来事についてなにかを語るとき、語る人はどのように責任を持てばいいのだろうか。とても難しい問題だと思う。すくなくとも私にはどうすれば、ベストでなくともベターなのかすら分からない。たとえば、「演奏」という一回限りの体験については、録音した音を聴いたり、撮影した映像を見たりもできるけれど、やっぱり音だけ・音と映像だけと体験とはぜんぜん違っていて、厳密にいえば元の体験を参照したことにはならないだろうし、それよりなにより、そのような記録よりも先に、その体験について語られたことばを知ってしまうと、それが参照点・基準・先入観になってしまう。こういう危険性はどうしても回避できないし、よかれと思っていようが褒めていようがその危険性はまったく変わらない。唯一完全に回避する方法があるとすれば、それぞれに口をつぐむことしかない。でも口をつぐんでしまうと、私の場合、自分の考えが進まなくなるのではないか、という恐れもあるし、そのつど思ったことを排出していないとよからぬものが溜まっていってしまうような気がして恐ろしいし、書いておかないと自分の体験したことが消えていってしまうような気がして恐ろしい。。けれども、なにかを語れば、誰かを傷つけてしまうかもしれないし、誰かの不利益になるかもしれない、という袋小路。こればっかりはほんとに難しい。このことについてみんなどういうふうに考えているのだろう。気になる、というか、教えを乞いたい。。やっぱりやりかた、言い方、形式、の問題なのだろうか。そういえば、品川庄司の品川さんが、ブログを書く秘訣は、ネガティブなことを書かないこと、となにかのテレビ番組で言っていた。たしかにそうかもしれない。でもそれだけではどうしようもない部分もありはする。。