なんかああいうふうに書くとややこしくなりますが、、出来事と出来事の「あいだ」、というよりなんていえばいいか、点と点があるからこそできる「あいだ」、ではないもっと基底的な「あいだ」の豊かさをどうにか記述できないか、ということですね。もちろん人間は分節・マーキングなしに出来事を認識できないのですが、その分節「点」から分節「間」にフォーカスする、そしてゆくゆくは、無限の範囲でフォーカスする、なんてことはたんなる夢想でしかないのですが、認識を判断の次元で絞るよりも、判断においては無限ということにしといて、どうしても身体の次元で絞られちゃうんだよ、って方が楽しそうです。結局またなんかややこしいですが。なんとなく、ほんとなんとなくなんですが、このへん、デリダとか関係ありそうな気もします。デリダについてはなんにも知りませんが、ぐるっと回って間接的に影響を受けているような気はします。私は言語によってなにかを「伝える」ことにはほとんど興味がありません。なぜなら、そこでは、「伝える」べきなにかがあることが前提になっているからです。限りなく鮮明で明確なかたちで、その伝えるべきなにかを、なにかを伝える主体は理解していることが前提とされています。これはなんなのでしょうか。こういうプレッシャーがあるから、私たちは「伝えること・言うこと・書くこと」に二の足を踏むのではないでしょうか。私たちは、伝えたいなにかを伝えるのではなく、なにかを伝えることで(伝えようとすることで)、伝えたかったことがなんであるかを事後的に知るのではないでしょうか。こんなのは詭弁でしょうか。遊び半分にことばを振り回しているだけでしょうか。でも遊び半分にでもまずことばを振り回してみないとなにもできないのではないでしょうか。私は自分のことをよく知りません。いや、知りません、というのはおかしいですね。私は自分のことをうまくつくれません。おそらく、性格も個性も自分でつくるものですね。で、自分でつくる場合、問題となるのは、どのような方針でつくるかさえも自分でつくらないといけないことです。これは難問です。うーん、ちょっと違いますね。おそらく「つくる」っていうのは思い上がりで、実際は「選ぶ」という方が正確です。周りの環境・状況から与えられる刺激に対する反応を選んでいく過程で「自分」を選ぶと。選び方(すなわち「自分」)を個別のなにかを選んでいく過程で選んでいくと。選び方なんて突き詰めれば好きか嫌いかなんですが、なぜ好きか、なぜ嫌いか、もまた選んでいるわけです。これは明らかに循環している。大元の根拠が消えています。根拠が消されている・隠されているわけではなく、どうやら「根拠がないこと」そのものが消されている・隠されているようです。根拠がない(循環している)にも関わらず、どこか適当なところ(自分の都合のいいところ)で区切られて、根拠がつくられてしまう。これが面白いなあと思います。RIP SLYME「Dandelion」女ことばのお父さんって、青木淳悟の「市街地の家」って短編にも出てきますね。

うちのばあちゃんは認知症だと診断されたのですが、見ていると、いろいろな出来事・状況に対してかなり偏った(私たちから見れば)根拠付けをします。直線定規だけで角度を測ろうとしているような感じにもみえます。つまり、根拠付けのための社会的な型(パターン)がどんどん失われていっているということです。とはいえ、私は、私たちとばあちゃんのあいだにはなんら違いはないように思えます。私たちは私たちの見たいようにしか出来事や状況や環境を認知しない。これはみんな同じです。だからこそ、私の見ている出来事や状況や環境と、他の誰かの見ている出来事や状況や環境とのすりあわせが必要になるわけです。認知症というのはこのすりあわせの技術が失われていくことなのかなと思います。もちろん、ばあちゃんは、いまなんか間違ったことをしなかったかな?と常に気になっています。なにかがおかしい、ひょっとしたらそれは自分の方かもしれない、というのはおそらくどの認知症の方も気付いていることだと思います。しかしそれを修正する手立てを失ってしまっている。これが悲しいところです。だから、ばあちゃんが無理して修正しなくて済むように、環境の方をばあちゃんに合わせて修正するわけです。それしか方法がない。しかし脳の疾患としての認知症を患っていない「正常な」私たちにも同じようなことはあるわけです。重複しますが、私たちは私たちの見たいようにしか出来事や状況や環境を認知しない、ということです。「見たいように」というのは正しくないかもしれません。「見れるようにしか」という方が正確だと思われます。おそらくここはどんな人でも同じだと思います。しかしここからさきの「すりあわせ」に希望を持てるかどうかでかなり違ってきます。「すりあわせ」が何によって行われるかというと「ことば」です。それ以外にはありえない。ありえたとしてもことばに比べたらまだ摩擦が大きいです。そうなると、ことばによって生まれた誤解をことばによって解かないといけない、ということも起きるわけです。これはいったいどういう事態か。そもそも「誤解」とはなにか。理解されていないことなのか。そもそも理解されていないと判断する根拠について被誤解者は十全に理解しているのか。誤解も一種の理解なのか。いまふと思ったのですが、「すりあわせ」というとき、その前提となるのは、すりあわせしないといけない、つまり、まったく相容れない、ということですよね。ここにきて疑問に思うのですが、私たちは「すりあわせ」が必要なほど、相容れないほど、違うものなのでしょうか。そういうときの違いって、たんなる主義・主張・信条の次元なのではないでしょうか。なんらかの問題意識・目的意識さえ共有されれば、そのような違いはなんら問題ではないように思えます。そもそも違いでさえない。主義・主張・信条なんて、なんらかの問題・目的へアプローチするときの手段・方法の一貫性でしかなくて、さらには、ひょっとしたら私たちは、なんらかの問題・目的へアプローチしたいわけじゃなく、手段・方法にかこつけて、(自己の)「一貫性」を欲しいだけじゃないのか、とも思ってしまったりします。もちろんアプローチの多様性は、問題・目的を豊かにするためには必須なのですが、こういう素朴な疑問も一方ではあります。いったんアップしたあとで、思ったのですが、上で書いたような「伝えること・言うこと・書くこと」の問題って、実際の伝える現場・言う現場・書く現場を想定せずに、そのまえにあらかじめ固まったものとして、自分の伝えたいこと・・・、自分の言いたいこと・・・、自分の書きたいこと・・・、というふうに思考することが可能だから生じるのかもしれません。パラドクスと同じっぽいです。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20071118 寝ているあいだも気になっていたというと嘘になるのだけれど、少し補足しよう、、これじゃ、コミュニケーションそのものを拒否しているようにもみえるし。。私は言語によってなにかを「伝える」ことにはほとんど興味がありませんが、私と私以外の何かや誰かが言語あるいは言語以外のもので繋がり、そのあいだで新たなものが生成したりそのことで私と私以外の何かや誰かが変化することに興味があります。なのでそのような生成や変化が起こるのであれば、必ずしも私たちの意図や意志が言語によって「完全に」伝わる必要はないわけです。不完全であればこそ、生成や変化が起こるともいえます。「完全」を目指せば、おそらく挫折して口を噤むしかないです。自分も含めて誰も自分を完全には理解できないのですから。というような終わり方は気に入らないなあ、と後から書き足しておきます。〜ですから。とか、〜のように。とかいうふうになんだか曖昧な余韻が残るのはなんともどうなんだろうと。我ながら。