16時半くらいに灘区役所に行って、入るまえに区役所から来た封筒に入れておいた25,000円ときのう市役所でもらった紙とを確認して、3階の市税課だったかそういう名前の税金をどうこうするところに行き、封筒から紙を出してカウンターでおじさんに渡すと、じゃあこっちこっちと促されてテーブルとイスのある一角に行って、担当者を待ち、やってきた中年の女性の担当者には見覚えがあって、前に来てるな、なんだったかな、と考えていたが思い出せず、あとで去年の税金の減免をしていたことが分かって、ああ、それでなんか来たことあるなと思っていたんですよ、と言う。で、そのあとまた違う担当の人が来たと思ったら、きのうの市役所で話した男性で、じゃあ、というときに区役所に入るまえに確認して、3階の受付で一回カバンから取り出した例の封筒が見当たらなくて、あ、ちょっといいですか、封筒がなくて、とカバンのなかを探してもなくて、あれ、封筒がちょっとなくて、いや、封筒がないのは別に問題ないですよ、書類はここにあるから、いや、封筒にお金を入れていて、とやっていると役所のおじさんたちが集まってきて、いくら入れとったの?2万円くらいです、たぶん2万5千円です、というやりとりをしつつ、カウンターのところなどおじさんたちと一緒に、ないですねー、と言いながら、わらわらと探してみるがまったくなくて、4階で遺失物の届けをして、警察にも届けた方がいい、話は後日にして、とおじさんが言うけれど、まあじゃあ話を先にして、そのあとで届けをします、と言って話をしたあとに、おじさんが4階から遺失物届けの紙を持ってきてくれて、それに記入してコピーをもらう。じゃあもうエレベーターも止まってるし入り口も閉まってるから、突き当たりの階段で降りて、一階の職員出口から出て、とのことで、帰るときにおじさんのひとりから災難だったなあ、と言われて、区役所の職員出口から出て右にいって通りでまた右折したすぐのところにある派出所に行き、遺失物の届けをする。なにをなくしたの?役所で、区役所でお金を落としちゃって、ぽっぽにないないしたんかな、と言われ不思議に思う。ぽっぽってなんだろう、ポケットか?着服のこと?で、気を取り直して予定通り、服と靴とCDを売るべく心斎橋へ向かい、ビッグステップのラグタグへ初めて行く。おととしくらいに買ってやっぱりサイズが大きかったから同じののサイズ違いを買ったため家に放置していたナイキとジュンヤワタナベのスニーカーが4,000円、これもおととし買って去年はまったく着てないコムデギャルソンシャツのTシャツが1,000円とのことで、1,000円なら着るよ!と思って靴だけ買取り。高校のときに買ったW&LTのズボンはやっぱり買ってくれない。で、売るべく選別してきたCDをディスクユニオンのふくろに入れていたら、ラグタグのお兄さんが、ディスクユニオンって大阪にはないですよね?一瞬大阪にも進出してきたのかと思いました。ああ、いやーないですよ、ディスクユニオンの袋で売りに行ったら面白いかなと思って、というやりとり。このお兄さんは東京に住んでいたらしく、どっかのユニオンで小山田圭吾さんが大量のレコードを売りに来ているのを見かけたらしい。CDはだいたい20枚くらい売って6.800円。これでも今日は赤字。-25,000+4,000+6,800-2500=-16,700でなぜか赤字。-2,500は自分の曲だけを使ったミックスCD、Ricardo Villalobos「Fabric 36」で、そういえば交通費が往復で1,050円かかっているから赤字は-17,750ということになるっぽくて、心斎橋のOPAのHANJIROで1,500円の黄色いナイロンパーカーを見つけて着てみたら思ったよりも生地が薄くてなかの服の色がかなりでるし、折りたたんで小さくできるナイロンパーカーだからやっぱり作りがちゃちくて、やめた。惜しいなあ。いまはとにかく黄色い服が欲しい。欲しいというか黄色い服がいい。今日の出発前に発見したshimaさんのTwitter(http://twitter.com/artron)より

疑問から確認そして観賞の流れは大切で、「観賞は悪徳」とするならば、悪徳の栄えを謳ったサドに限らず、それはとても見る眼の研鑽を必要とする。鋭い眼力を持たずに観賞は不可能とも言える。点を持つとそこに相対が生まれるので可能な限り点をずらすないしは無心を必要とする態度であるとも言える。

「点を持つとそこに相対が生まれるので可能な限り点をずらすないしは無心を必要とする態度であるとも言える。」まさにそうなのだけれど、これは何回強調しても足りないくらいにまさにそうなのだけれど、固定化された点が自己のアイデンティティであって、是が非でも点を固定しなければならない、点は流動的なものであってはならない、自己を持て!オンリーワンであれ!、というような、点を固定したいがために点は固定的であるという決め付けをしたり、相対化を点の固定化のいいわけに使ったりするような、私たちの、あくまで私たちの傾向に対して、「可能な限り点をずらすないしは無心を必要とする態度」を、どのように具体的な生活(生きること)に即して、というかリアリティとかアクチュアリティとかに即して、説明できるのか、説明しうるのか、とさいきん考えるでもなく考えていて、昨日のおふろでもあたまからお湯を浴びつつ考えていて、それはそのまえに湯船に漬かりながら上野俊哉毛利嘉孝カルチュラル・スタディーズ入門」を読み終えてその最後の章がそんな感じのはなしだったからというのもあって、この本はそういえば「あとがき」なるものがない。

しばしば、研究者共同体のなかの言葉は、地理的、時間的に「遠い他者」(マイノリティ、サバルタン、受苦者・・・・・・)に対しては繊細な心遣いと共感を見せながら、日常生活における「近い他者」(大学生やフリーターなど)の実態にはしばしば無神経な場合がある(われわれ自身このことを日々、痛感している)。

しかし、研究者共同体やアカデミズムの制度の外に向かって言葉を紡ぐということは、何も話をわかりやすくすることでも、単に何回な理論を啓蒙的に説き明かすことでもない。<中略>「わかりやすさ」と「実感」を信奉する読者層と書き手の層が、ともにある種のリアリズム―実際にはそれは別の意味で「現実」の否認であるのだが―からくるナショナリズムにあっさりと身をゆだねているのである。<中略>カルチュラル・スタディーズがやろうとしていることは、全てを「わかりやすく」説明することではなく、むしろ、日常のなかの「わからないこと」(はっきりしていないこと)の所在をそれとして示すこと、たくさんの「わからなさ」(分節化されていなもの)を、その「わかりにくさ」そのもの、あるいはその社会的、政治的な理由や背景を通してはっきりとさせる(分節化する)ように導いていく点にある。

と述べたうえで、ベル・フックスというひととそのことばを紹介しながら、カルチュラル・スタディーズがとりうるひとつの態度を示していくのだけれど、そこまで引用するのは面倒なのでしないことにして、たとえば対立し反目しあうふたつの立場があったとして、それらがお互いの立場を主張しあうだけではなにも状況が変わらず、面倒くさいけれども実りが多そうな方に、手を取り合うまではしなくても、お互いがお互いを視界の端にでも捉えられるくらいに近づいて、とりあえず足を踏み出していくしかないということで、仮に、ある立場の人たち(それは私たちかもしれない)が自分たちだけの世界に閉じ篭ってしまうことで、その人たちが気付かないままに、その人たちが依って立っている状況やなんやかんやが迷惑を蒙っているのであれば、いいかえれば、自分の選択が他の知らない誰かへの暴力になりうることを考えれば、やはりそれは批判されても仕方がないし、考えることを促されても仕方がないということでもある。最低限そういう認識を共有できれば、なにかしらどうにかできるかもしれない。ということをベル・フックスさんや上野俊哉さんと毛利嘉孝さんが言っているんだと思う、たぶん。たんに「余計なお節介」とどう区別できるか、ということかもしれない。Do Make Say Think「The Whole Story Of Glory」はタワレコマルビル店で見てみたらベスト+ライブ音源だった。来日するから。帰ってからハヤシライスを食べるべくおとといのご飯をお皿によそおってしゃもじについたちょっとかたくなったお米を食べていたら右の奥歯の銀歯がとれた。