まいどー。うちの父ちゃんは、一般的に実用的でない生産物を純粋芸術と呼んでいるみたいよ、どうやら。具体的な有用性を前提に「しない」生産物を、いったんすべて純粋芸術と呼んでみることにはたしかに意味があるような気がする。そういう意味でいうと、「音楽」はその他のカテゴリーの生産物に比べて、ものすごく有利な立場にいるというか、機能的(「いい気分」とか「踊れる」とか)な部分と鑑賞的(音楽を音楽としてみる)な部分が混在しているからか、みんな「音楽」の具体的な有用性なんてあまり考えないし。聴かないひとは、ただ聴く習慣がない、もしくは、車や仕事場のラジオとかでぼんやりとは聴くけど意識的には聴かない、みたいなことだったりするので、本を読ませたり絵画を見せたりするよりは、音楽を聴かせる方が簡単にできそうな気もする。けど、そこが面白くなくなる原因でもある気もする。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080303 あと昨日の「なんらかの「普遍」を目指すのであれば、素材を音(楽)に限るのは私にとってマイナスにしかならない、という判断をしただけだろうなあということ。正直なところ、音(楽)じゃなくてもいい、と思えたらちょっと楽にはなった。」というところは微妙に表現しきれていないところがあって、音(楽)なんてダメだ!やめだやめだ!というよりも、何をやっても結局なにかしら音は出る!そしたらもう音ありきの発想である必要はないな!やったやった!ということで、そこになにかの音があってそれをきく人がいれば、それは音楽であり「うる」、つまり音があってそこに人さえいれば、そこで起きることは音楽であり「うる」、という「うる」の部分に、アリストテレスのいう可能態(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%82%B9)のようなものをみていて、音楽に限らずとも、何かやったらそりゃ何かにはなるだろうよ、何になるかは知らんけど、という投げやりにポジティブな感じを持っている。だから、何かやった「結果」がたとえ音楽でなくても構わない、何かさえ起きたらそれでよし、と思えたら、ちょっと考えるのが楽しくなった、ということかもしれない。といっても、現状は、音楽(広い意味でのコンサートという形式)のなかで音楽じゃない(ような)ことをやっているわけで、それが音楽(広い意味でのコンサートという形式)のなかだからこそ何か起きるのか、別にそうでもないのか、がいまひとつ掴みかねるし、難しいところだけれども、かといって、「もの」としての何かを作るのに向いているわけでもなし、「こと」を展示しようとしても(インスタレーション?)最終的には「もの」として見られてしまう以上、コンサートという形式でなくても、いついつどこそこで私が何かをやります、という形式以上のものはないようにも思う。「映像」もその情報量とか写真とは違うフレーミングの感じがすごいなあ、と思うけれど、ちょっと違うというか、私の手に余る感じがするし。。昨日NHKでみたテレビ番組で、ベトナムに住むあるおばさん(娘)が、日本に住んでいた母親と、父親が亡くなったのをきっかけに、ベトナムで一緒にふたりで暮らす、というもので、80歳を超えた母親(ばあちゃん)は認知症なので娘さんも大変で、なおかつ日本ではなくベトナムだからさぞや大変だろうなあ、と思ったりもしたのだけれど、ベトナム儒教の国だからお年寄りにみんな優しいらしく、それはとてもいいことだし、人生の終わりにさしかかったじいさんばあさんが楽しく過ごせるのがいちばんで、終わり良ければすべて良し、などというと不謹慎だと怒られそうでもあるけれど、私はぜんぜんそうは思わなくて、誰でもいつかは死ぬので、それならば最後に、まあなかなか楽しかった、と思って死んでいった方がよかろう、という。自分も含めて。そういえば池田亮司「test pattern」というのが出ていて、試聴してみたらわりあい「dataplex」の発展形のような感じかしら、と思って、タワレコに行くたびにCobblestone Jazzのアルバムを試聴してしまって、いまだ買うには至らなくて、あとはPerlonのコンピをさりげなく探しているけど、ない。


Daft Punk - Digital Love

Acoustic Love - Daft Punk's 'Digital Love' swing version

Daft Punk - Digital Love (Mayhem's Talkbox Cover)