時間(時のあいだ)と時刻(時を刻む)の違いは、木村敏さんがベルクソンの純粋持続やハイデガーによるアリストテレス読解などを通じて「時間と自己」第一部「こととしての時間」のなかで描いていた。http://d.hatena.ne.jp/k11/20071124にて時間の「量」と「質」といっているのは、木村さんのいう時間の「もの」と「こと」で、時間の空間化を「もの」化ではない方向で考えるというのも、実感を持って理解できる。「もの」と「こと」の存在論的差異というのもうーんと唸りながら考えるとなんとかなんとなく分かる。たぶん時間を[もの(イメージ)化]や[量的観測の対象化]に至らずに空間と結びつけるということだと思う。あとは、「時間と自己」第一部「こととしての時間 - 2あいだとしての時間 - あいだとしてのいまの拡がり」の

(ベルグソンのいう:引用者注)持続はそれ自身が差異化の動きなのであって、持続が持続として成立するためには、持続は差異のもう一方の側である空間を必要とする。しかしこのことは、持続が持続として成立する限り、決して純粋ではありえないということを意味する。<中略>これと全く同一の関係は、こととものとのあいだにも一般に言える。ことがこととして成立しうるためには、ことはそのつどすでに、あらかじめものによる「汚染」を蒙っているのでなくてはならない。

というベルクソンの純粋持続の概念を読み直す箇所で、「コト」は「モノ(かたち)」を通してからでないと起こりえなくて、といっても「モノ」をそのまま「物」としてみるのでは「コト」の次元は立ち上がってこなくて、「モノ(かたち)」の「コト」に繋がる側面を「質量」というキーワードで去年からしばらく考えていたことを思い出して、楽しい。「コト」が起こるための「モノ(かたち)」にはおそらくふたつの側面がある。形相と質量?意味されるものと意味するもの?なんともややこしい。。とにかく「コト」が起こるための「モノ(かたち)」の可能性は、象徴や通念やなんかの「意味」の側面ではなく、ということはつまり「モノ(かたち)」の記号的な側面ではなく、「モノ(かたち)」の質量的な側面にある。たぶん。あとすくなくとも私は「コト」は「モノ(かたち)」を通してからでないと起こりえないということを「汚染」というネガティブなことばでは捉えたくはないなあと。そういえばこういうことを考えだしたきっかけは、音楽の時間(時のあいだ)に時刻(時を刻む)を持ち込むことへの疑問というか、そういうのがいまだに完全には払拭できていないから、だったような。そのなかではなんらかの法則というか論理があるのかもしれないけれども、そのなかでだけ自足してしまっていないかい、それを体験する私たちになにか働きかける要素はあるのかい、という。法則とか論理を楽しむ、というベクトルにおいては、それをそのままダイレクトに出力する(というのはそもそも原理上不可能なのだけれども。どこまでいっても「翻訳」もしくはメディアの「移し替え」によるノイズを排除できない)という志向よりも、とにかく迂回して迂回して遠いところから攻める、という志向がいいような気がする。なんでもそうかもしれないけれど。法則とか論理とかはクッションなしの「そのまま」ではそもそも知覚すらできないというか、現前性が生じえない、というか。音楽の時間(時のあいだ)に時刻(時を刻む)を持ち込むことは、音楽の時間(時のあいだ)の「もの」化であり、それが「もの」にとどまって「こと」に至らない以上、その体験の可能性はその「もの」の要素に含まれる単一の文脈(視点・観点)の狭い範囲にのみ限られてしまう、といっても、体験の可能性がその「もの」の要素に含まれる単一の文脈(視点・観点)の狭い範囲にのみ限られてしまうのは、なにも時刻(時を刻む)ことだけに限らないし、そもそも狭い範囲のなかだけの専門的なはなしが悪いわけでもないし、それでも、狭い範囲のなかだけの専門的なはなしになるとやっぱり、「もの」についての「もの」になるというか、「モノ(かたち)」についての「モノ(かたち)」になるような気はする。それ以外への通路があらかじめ塞がれていないと成り立たない世界というか。