トイレにいきたい。おおきい方。人を笑顔にさせたくてつくったもので、笑顔になってくれるのは、相当やさしい人か、やさしいふりの人か、とにかくなんでもいいから「共感」したい人か、自分の「人を笑顔にさせたくてつくったもの」も見てほしい人か、くらい??私たちはどちらかというと、「笑わせる」じゃなくて、「笑われる」方。おっ、これは面白いぜ!みんなを面白がらせてやるぜ!みたいな感じでやることってたいてい面白くないというか、本人は面白いと思ってるんだろうな、、ってちょっとさめる、というか、そんな感じがあるけれども、ナベアツさんの自転車のネタってはなしで聞く限りはぜんぜん面白くなさそうだし、ペットボトルが倒れたら倒れたで、うん、倒れたけれども、、という感じになりそうよね。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20090208 ぜんぜん関係ないけど、お笑いの世界も、リアルリアル言った果てにナチュラル=素、っていうのがあるかもしれない。うっかり出てしまった(ように見せかけた)芸人の「素」を笑う、みたいな。これもなんか変だけど。ナイツの塙さんが「すべらない話」に出ていたときに感じた変な感じはこれに関係があるのかもしれなくて、塙さんははなしているあいだ、常に「はなす、というのはつくりごとですよ」っていうサインを出しているような感じがした。はなしの面白さを、自分のキャラクターや仕草や動きに収斂させるのではなくて、あくまでも「はなし」にはなさせる、という。なんか最近あまり書くことがなくて、それこそ書くことなんていくらでもあるのだが、単に気合が足りないのか。新開地から三宮まで歩いたことだけで、書こうと思えば何字でもでも書ける、というのは言い過ぎた。いままでは、弱ってる、とか、感受性が低下している、時期、というものがあるなんて考えもしなかったのだけれど、そういうのはけっこうあるかもしれないと思います。けど、歩いているうちにわりとマシというか、今日は月曜だからジャンプとヤンマガとスピリッツを立読みしよう!と思うと、けっこうマシにはなる。なにかしらインプットしていくと、エネルギーになるのか。なんか最近あまり書くことがなくて、適当に書き流せる話題がないというか、ネタがないというのか。なんとなくパソコンの挙動がおかしいので、下書きを保存する、というつもりではてなダイアリーの「保存」というボタンを押したら、投稿?アップロード??されてしまった。それはそうと、柄谷行人「探求 Ⅰ」をいつだったか、土曜日だったか、ちらっと時間潰しに入ってそんなに潰す時間もなかった、ジュンク堂で立読み。立読みではミニマリズムを感じるまでには読めなかったけれど、面白そうな内容だった。独我論ってなんだろう。もしも、「私」を共有する、ということができるのであれば、面白そうだと思う。「私」といってもいまこの文章を書きつつある私ではなくて、あとは、もちろんある範囲に限らざるをえないだろうけれど。それと、いわゆる「芸術のための芸術」と「制作のための芸術」(とでも呼ぶべき態度)のふたつは、それぞれに別世界と呼べるほどに隔たっていて、互いに互いを寄せ付けない、ようなところがある。もともと厳密には区別できないものなのだろうけど(たいていはひとりの人間の中でふたつが混じっていて、どちらの配合が多いかで、どちらの態度になるのかが決まる)、その結果、というか最終的にできあがるもの=「作品」の分類作業の過程で、厳密に区別されているふうに見える。前者は主に、いままでの芸術に対して「私も一言付け加えたい!」というようなもので、後者は主に、「私もつくってみたい!つくりたい!」というようなもの。違いといえば、いままでの芸術に対する「一言」のありなしかしら。前者の芸術においては、おそらく、この「一言」の創造性・オリジナリティが、評価の分かれ目なのだろうけれど、後者の芸術においては、その「一言」は特に必要ではない。なにを言うかが問題なのではなくて、なにかを言うこと自体が問題なのであって、さらにいえば、他でもない「私」が言うということが重要。そして後者の芸術において出来上がる「作品」のなかでも、前者の芸術に取り込みやすいものもあって(ぐうぜん「一言」言ってしまっていた、とか、意識せず言ってしまっていた、とか)、「芸術のための芸術」として評価を受けることもあるけれど、取り込めないもの、つまり、どこをどう探しても芸術(史)的に創造的な「一言」を見つけられないもの、については、「芸術のための芸術」のなかには入れない。とはいえ、入れなかったからといって、「一言」言うのが目的ではない「制作のための芸術」にとっては、とくにマイナスでもない。あんまりきれいにばっちり対比できるようなものでもないので、分かりやすく対比するのは危険だけれども、このあたりの事情について、どっちかに偏るのではなくて、できるだけ中立に、こまかく見ていってみたい、と思うと、わりかし抽象的な、というより、形而上学??的な、芸術についての考えになってしまうのは、しょうがない、ようにも思う。個別の作品とか時代ごとの流れとか、にはあんまり興味が向かないのかもしれない。いや、ないことはない。きっかけがあれば個別の作品もどんどん見たいし、時代ごとの流れも知っていくとちょっと楽しい。ある程度のまとまりを持った、言語的なもの、概念とか観念とか、をモノやコトによって置き換える=喩える=象徴させる、ことがまずあり、次に、そのような概念・観念の象徴としてのモノやコトの「関係」の構成、がある。その一方、なんらかの現実のモノやコトに含まれる「関係」を形式として取り出して、関係性はそのままに別のかたちに置き換える、こともある。大別すると、このふたつになるような気がする。というようなことを、今日の午前中、電車に乗っているあいだ、もっとはっきり整理できた気がしたのだけれど、気のせいだったかもしれない。いま考えてもよくわからない。