先日あさ起きてテレビを見ていたら小倉さんの番組に大澤誉志幸さんが出ていて「そして僕は途方に暮れる」をうたっていた。それにしても「ふざけあったあのリムジン」って。「リムジン」で「ふざけあう」ってなんだよ、という。いまからみれば。いやこの歌は好きですが。


そしてこのPV。

デザインとは、その結果(一般的には)としてのモノを通して、人々の行為をなんらかの方向に(もちろんよくもわるくも)導き、人々の行為をなんらかの方向に導くことによって、人々が生活していくこと(時間)・生きていくこと(時間)をなんらかの方向に導いていくことではないか。うちの実家は(というより親父は)森正洋さんのデザインした食器を流通・販売しひろめていく会社(仕事)をやっているのだけれど、プロダクトデザイナーとしての森さん(私たちは森先生と呼んでいる)の仕事をみたときに、たとえば有名なG型しょうゆさしでいえば、森さんは単に見た目の良いしょうゆさしをデザインしたわけではなく、「しょうゆをさす」という行為をよりよくしようと考えたわけで(たれずに気持ちよくしょうゆをさせるように)、その結果がG型しょうゆさしというひとつのモノ・かたちになっている。また、生産地である(製造元の白山陶器のある)波佐見で(磁器を)生産するということをよりよくしようと考えた(新しい品種の開発によって活性化を図ろうとした)結果のモノ・かたちでもある。つまり、森さんは、しょうゆさしをデザインすることによって、使う人だけでなく生産する人の生活していくこと(時間)・生きていくこと(時間)をも、また、生産する人だけでなく使う人の生活していくこと(時間)・生きていくこと(時間)をも、よりよい方向へ導こうとしたのだと考えられる。G型しょうゆさしを生産し流通させること、またはG型しょうゆさしを使ってしょうゆをさすこと、によって、森さんのデザイン(計画)はその都度、生産者と使用者によって実践されていくということになる。そして、この両立をこそ評価しなければいけない。と、こういうふうにはなしを流してきて、何を言いたいのかというと、デザインの本質は、モノやかたちではなく、それによって引き起こされる人々の行為や出来事、ひいては生活の変化・感覚の変化、つまり時間性にあるのではないか、ということ。確かにモノやかたちを媒介にしてはいるけれど、モノやかたちは目的ではなく(その先の出来事のための)手段であり、結果ではなく(その先の出来事の)原因である。しかしいまだに、モノやかたち重視の思考・志向は根強い。たとえば、森さんが晩年にデザインしたある商品(のデザイン)をとある賞の審査に応募したところ、実際の正確な言い回しは定かではないが、「〜の部分が使いにくそう」というようなコメントが審査員からでたらしく、この解釈はあまりに言葉尻だけを捉えすぎているのかもしれないが、「使いにくい」ではなく「使いにくそう」といってしまうのは、「デザイン」を評価する態度として(上述の記述に照らし合わせてみるまでもなく)明らかに問題がある。眼でモノのかたちの表面(見えているところ)だけをトレースする(デザインをその計画の外側から理解しようとする)のと手でモノのかたちによって導き出される動きをトレースする(デザインをその計画の内側から理解しようとする)のはまったく違う。もちろんここでは、眼と手の(隠喩による)対比が重要なのではなくて、外側からの理解と内側からの理解の対比、または表面のトレースと運動のトレースの対比が重要なのであって、つまり重要なのは内在性と時間性ということになる。モノのかたちの「謎解き遊び」でも「存在の理由付け」でも「消費の価値判断」でもなく、モノのかたちを自分自身の思考と身体によって(思考と身体の時間によって)生きることでのみ、モノのかたちとモノのかたちをつくること、が活きてくるのではないか。そして、私は「つくる」つまり「計画する」という次元で考えれば、アートもデザインも変わりがないと考えている。ここから趣味や嗜好や自己実現や投資として「ではない」アートのかたちが見えないかしらと思っている。そしてそれは、つくり手にのみ言及するわけではなく、うけ手にも言及することになる。むしろうけ手としての能力がつくり手としての能力を支えるという当たり前のことが問題にされるかもしれない。そしてそれは、すべての人が、社会活動をする限りにおいて、捉えうる限りの最大の意味での「生産」別の名を「表現」という「つくる」こと一般に関わっている・関わらざるを得ない、という当たり前のことからスタートするでありましょう。というか、それらふたつのことが当たり前である、ということを考えるところから始めないといけない。たぶん。みんなどこまでも自分のことまでも他人事なのだ。それは自分をみればいちばんよく分かる。そして今日は17時20分佐賀発伊丹行の飛行機が使用機の到着が遅れたため出発が5分遅れ、伊丹からモノレールに乗り、蛍池阪急宝塚線に乗り換え、梅田まで出て、三番街のカフェ・バーンホーフで、カフェオレにいいのはどれですか、と訊いておすすめされたイタリアブレンドだったかそういう名前のブレンドを200g、お挽きしますか、いや豆のままで、購入。その後Nuにあるタワレコに向かうべく高架付近を北へ向かい、高架下から向かいの歩道に渡る途中くらいでさっきまで止んでいた雨がまた降り始めてみんなが一斉に歩きながら傘を開き始めるのであぶない。こんなに傘をさした人がいるんだから誰かと誰かと誰かと誰かの傘にこっそり少しづつ入れないかと思ったけれど、どうもダメっぽい。堂々と濡れて歩く。イギリス紳士は少々の雨が降っても傘をささないと聞く。タワレコではニューミュージックコーナーをまず見てみるが、なんかもうついていけない、というか、そういう情報があたまに入らない。取り残された感じ。最近でてきたらしい知らない人のCDがたくさんある。alvanotoの新譜とロブマズレクのグループの新譜だけ試聴して、テクノコーナーへ。その後6階のロックとかJポップとかのコーナーがあるフロアに降りてみる。神戸のタワレコで試聴しておっと思った笹倉慎介さん(http://sasakurashinsuke.com/)のアルバムを棚で探す。試聴はないのかと思ったら渚にておおはた雄一さんの新譜と同じ試聴機に入っていた。笹倉慎介さんのアルバム「ロッキンチェア・ガール」とグリンプスのミックスCDとコブルストーンジャズの「23seconds」とどれにするか迷って、結局コブルストーンジャズにする。コールドプレイのアルバムも、ラジオでよく聞いた(聞かされた)よしみで試聴した。笹倉慎介さんのうたごえは、ママレイドラグの田中拡邦さんのうたごえ(に感じる魅力)を私に思い出させる。私が(広い意味での)ポップスを好きなのは、そういうふうに自分を躾たからだし、そういうふうに躾られたからでもある。だれにだろう。

笹倉慎介「ロッキンチェア・ガール」