18日のよるからまた実家。19日から会社番というか箱詰めとか配送とか配送とか在庫確認とか配送とか。電話は取らないけど。FAXは取る。おとといは最近やっていることを母ちゃんに話してみたところ、はなしだけでもけっこううけた。(そういうのをやるのは)面白いだろうねえ、だから(フルタイムで)仕事しないの?いや、それは関係ないよ、という問答。じつのところそれはぜんぜん関係ない。自分の活動のための時間がなくなるという理由で、仕事に自分(と自分の時間)が拘束されるのを嫌う人はたしかにいるけれど、そういうふうに、こういってよければ、完全に両方が分断した、両方がお互いを憎みあうような、二足のわらじはあんまりよろしくないような気がする。すくなくともそれぞれの「わらじ」同士は憎みあうなんてことはないけれど、わらじ同士のあいだにいる「わらじを履く人」がそれらを憎みあわせるのだろうか。といっても、(そういうのをやるのは)面白いだろうねえ、だから(フルタイムで)仕事しないの?いや、それは関係ないよ、という問答の、関係ないということについてはあまり明確ではない。だいたい何のために働くのか、という、その問い(方)はびっくりするほど悪い問い(方)だ。さきほどは、父ちゃんと、自分の好き/嫌いしか判断基準がなくてさらにそれを他人に強要すること(または人)について、または、出会ったものごとをとりあえずなんでもかんでもデータベースに登録してれば安心安心(で、そのものごとに出会ったこと、そして登録したこと自体をきれいさっぱり忘れる)という判断停止(保留ではなく)について、ものごとを自分が生きていること(広い意味での生活)に沿って判断をしないこと(または人)について、もはや何のためにでも誰のためにでも誰が仕組んでいるのでもない思いこみをみんなして思いこみあうことの不思議について(自分たちもそのなかにいる)、ひとしきり。(もちろんこういうはなしは抽象的な自分以外の人としての「誰か」についていっていたらなんにも意味がなくて、自分自身がそうである、という前提でいわないとなんにもならないけれども)こういう文脈で父ちゃんがたまに言う「純粋芸術は不要である」と「美術館は不要である」を考えてみると、その意図がよく分かる。たしかに上述のもろもろ含めいろんないろいろの問題というかひっかかりを解消しうるのは(最適解を与えうるのは)広い意味でのデザイン(の持つ一種の浸透性?透明性?)である、というのはひとつの希望ではある。芸術なんていっても、せいぜいが、おれのはなしを聞け!おれの考えを聞け!という(まさしく!)自己主張の道具か、作り手受け手それぞれの、好き/嫌いの切り分けという空疎な(といってよければ)自己の差異化・理想化(アイデンティフィケーション?)の道具か、これいいでしょ、いいねえ、みたいなゆるーい(思いこみの次元での?)「つながり」のための道具か、投資や売買の対象くらいにしかなってないような気もする。(もちろん芸術といっても、映画とか音楽とか小説とか絵画とか詩とか写真とかその他ジャンル化されづらいもろもろも含め、すべての、実際の「着て食べて住む」という意味での「生活」において、さしあたって実用的でない(ように見える?)表現(行為/物)、をここでは指す)といってもいま、芸術が置かれている場所とデザインが置かれている場所は似たり寄ったりの気もする。どちらも同じくらい最適解への可能性からは遠ざかっているというか。最適解といっても、こう、絶対的な普遍とか、完全なる善とか、なにやらすべてを越えてすべてを統べるものというようなものではないけれども。最適解が目的なのではなくて、最適解のための可能性(というひとつの場、土壌)を作るといった方がより近いのかもしれない。そういう意味では私と父ちゃん(というよりも森正洋さんか?)の考えるなにかしら目標めいたものは近いのかもしれない。そもそも最適解ってなに?という問答も自分のなかで起こってくるけれども、たしかになんなんだろう。曖昧すぎる。(世界が?)豊かになればいい、というのも曖昧すぎる。労働とか生産とか消費について考え直すこと?自分に厳しく他人に甘く?