CISCO RECORDSのサイトにある田中フミヤさんのインタビューより

Q : お客さん、オーディエンスに対して、こういう形でDJをしているっていうことを説明する何か必要性を感じたりしていたということ?


F :説明する必要性を感じていたというよりは、まあ、例えばフロアにレコードが選ばれるっていうようなことって、初めて聞く人によってはドーンと言葉で投げられても何かいまいちハテナ?マークでしょ? で、そこに何かひょっとしたら理解できるヒントじゃないけど、キーワードみたいなことは、その場で思ったことを瞬間的に喋って残っていった言葉に可能性があるのかなと。ひとつのきっかけというか、最大公約数じゃないけど、その中のなんか、ひとつの要素になればなあと最初に思って。パーティーでお客さんに『フロアーにレコードが選ばれるっていうけど、私が選ぶレコードはかからなかった』って言われたことがあって。そのことを色々考えてみると、DJ中に選んだ基準みたいなことをその場で喋っていくしかないんかなっていうことを軽い感じでたぶんブログに書いたはずやねん。もともと肩に力が入って、これはもう説明していこうよっていうようなものでは全然ないっていう。

『フロアーにレコードが選ばれるっていうけど、私が選ぶレコードはかからなかった』っていうのは
意地悪な意味ではなく、すごくいい質問で、なおかつ本人に言ったのはすごくいいと思った。
たぶん「フロアにレコードが選ばれる」と「私が選ぶレコード」は別の次元でも位相でもいいが
とにかく別問題だということをはっきりさせないとややこしい。
先の疑問は「フロア」と「個」としての「私」を同じものと考える、もしくは
「フロア」がさまざまな「個」としての「私」の集合体(みんな)だと考えることから出てくる。
たぶんそのどっちも田中フミヤさんのいう「フロア」ではなくて、おそらく、
過ぎてゆく時間をその空間において純粋に「過ぎてゆくこと」として体験(生成)しつつあるなにか
を「フロア」と呼んでいるような気がするがどうなんだろうか。
あと、「選ぶ」ことを先取りすることはおそらくできなくて、
とにかく何かを選ばないと「選ぶ」ことは発生しなくて
それが発生したときにはすでに「選んだ」ことになっていて
「選んだ」こと(で起きたこと)に対してどう思うかを「選ぶ」ことしかできない。
田中フミヤさん含め誰も選べないが、どう思うかをみんなで共有するということを
「フロアにレコードが選ばれる」と表現しているのかもしれないが
いままでのもろもろがそもそもまるで違う気もする。
ということを田中フミヤ「via」をひととおり観たあとに思った。
DJイベントに行ったこともないしクラブに踊りに行ったこともないし
ターンテーブルもレコードも持っていない私でもなにかしら面白かったし
インタビューでウィ・ディストリビューションの山崎さんが突然出てきてびっくりした。
山崎さんと、この前会った、30代で家具職人から靴デザイナーに転職した武士っぽい人の
ふたりだけが、私が何もせず本だけ読んで過ごしていることについて
(こう書くとひきこもりのようだが、もしかしてこれがひきこもりなのだろうか、
昼間はたいてい外にいるのだが、そういうのもひきこもりというのだろうか)
うらやましいとかそういう意味ではなく素晴らしいと言っていた気がする。
DVD本編と(DVD収録曲で新たに構成された)ミックスCDがあまりに違うのだけれど、
(音の組み合わせとして違うのは分かるし、視覚情報のあり/なしもあるだろうが、
なにか根本的に違う気がする)
これは「フロア」があいだにあるかないかの違いなのだろうか。