10/18(木)の15時50分ごろ家を出てJR方面まで降りて、りそなのATMでお金を下ろしか降ろしか卸しなわけはないと思うが、ATMを出て右につまり山側に少し行くとなんとかというバーがあって、狭い路地を挟んで向こうに駐車場があって、夕方近くなるとそのあたりの道路に面した歩道に中国の人らしき人たちが老若男女というと言い過ぎだが割と幅広い年代の男女が、と試しに「なんにょ」で変換してみたら「だんじょ」と同じふうに変換されたのでちょっとびっくりしたが、そのバーの向かいあたりに、1階がパチンコ屋で2階にダイエーがあったりその他もろもろのちっこいお店があったりする商業ビルというには商業的にどうなのか分からないビルがあって、そこを通ってJRの駅に行く途中にあるチケットショップで大阪までの昼得切符というのを買って、通常390円のところを250円で行けるのは得だがそもそもチケットショップに行くのがまず面倒くさいし、死ねマートとか死ねリーブルとか映画館の名前をそのままスペースキーで変換するとなんだか物騒なことになってしまう上に、これじゃあ何に死ねと言っているのかがそもそも分からない。のだけれど、シネマート心斎橋に着いたのが16時57分くらいで、なんとか17時からのサッドヴァケイションに間に合う。映画館で映画を観るのは、両親に連れられて行ったフォレストガンプと何かは思い出せないがとにかく宮崎駿のやつと、中3くらいだったかそのくらいに行ったエヴァンゲリオンまごころを君にだったかそういうタイトルのと、大学の時に行ったヴァージンスーサイズと、あとはここ何年かで行った、犬童なんとか監督のオダギリジョー柴崎コウが出ているあれはなんだったかなんとかハウスだったかと、青山真治エリエリラマサバクタニ(ラマじゃなくてレマだった気もする)と、ゴダールのアワーミュージックと、鉄コン筋クリートと、さくらんの次なので何回目だろうか、だいたい9回目らしい。青山真治ユリイカはビデオで観た。長かった。3本組だから当然だが、3本組だから当然というのはおかしくて、長いから3本組なのだろう。サッドヴァケイションがというより映画という仕組みそのものがなのかもしれないが、はなしの筋としてこれがこうなって→あれがああなって→結局こうなったのだな、と思えるということは、はなしの筋として結局こうするために←これをこうして←あれをああする必要があって、とも思えるということで、具体的に言うと、(サッドヴァケイションという)物語として最後に「新しい命」が必要だから主人公(?)健児とその恋人が出会う必要があったということで、健児とその恋人が出会う「必要」とその「出会い方」がなんかしっくりこない気がしたのだけれど、こういうのは映画を始点と終点のあるひとつの固定された可逆的な時間として(というか時間という仕組み自体が始点と終点を必要とするからそもそも可逆的なものではあるけれど(「時間」の量的側面だけでは過ぎゆくものが捉えられないように思うけれどどうなんだろうか(というか「時間」に量的な側面以外の側面があるのだろうか、「時間」の量的な側面以外の側面をはたして「時間」と呼ぶのだろうか)))、外側から見る限りで生まれる視点であって、映画の流れそのものや映画を内側から見ることとは関係がないだろうし、こういう視点で見ても別に面白くないからやめることにする、というのは帰りの電車の岡本-御影間で思ったことで、行きは地下鉄の心斎橋駅で降りて、OPAの方の出口から出て右というか難波の方へ歩いていって、アップルストアのところで右に曲がってしばらく行くとビッグステップがあって、シネマートはその4階にあるらしく、階段を登るけれども一応1階扱いのアローズの向かいにあるエレベータでもエレベーターでもどっちでもいいがそれに乗るべく待っていると、ふたつあるうちの左側が下から上がってきてすでに女性2人組が乗っていて、階段を登るけれども一応1階扱いのアローズ前から乗った私を含む男性3人を合わせると計5人で上に向かうことになって、その時点で押されていたボタンは3階と4階と6階で、2階で一旦停まったけれど外には誰もいなくて誰もいないからか余計に開いている時間が長く感じられて、エレベータ入口左側にたて並びについているボタン類に一番近いのは私だがエレベータ入口から見て左の側面によこ並びについているボタン類に一番近いのは女性ふたり組だったし、からだを捻ってボタンを押すのが面倒臭かったので、エレベータ入口左側にたて並びについているボタン類に一番近いのは私だということに気付かないふりをしていると、女性ふたり組のさらに入口に近い方の女性が閉まるボタンを押してくれてドアは閉まり上に向かって、3階で停まって女性2人組が降りたあともなんだか開いている時間が長く感じられてというかビッグステップのエレベータは実際に開いている時間が長いのかもしれないが、今回は何の言い訳もできないので私がからだを捻って閉まるボタンを押してドアは閉まり上に向かって、4階で停まって私は降りたのでそのあとのことは知らないので、記憶に残っているところを列挙していくと、1.最初に出てくる文章を、始まっていると思ってなくて読み逃した。2.映画に、音は要るだろうけど音楽は要るのだろうか。絵と動きと音だけでははなしが作れないのだろうか。3.健児が川のような用水路のようなところを流れていく時に、飛行機のブーンという低い音が入っていた。その低い音が無くなるのと同時に周囲の風に揺れる木々の音とか鳥の声が立ち上がってくる。4.梢ちゃん捜索隊のふたりの会話が妙にしっくりきた。5.母を見つけた直後の健児の爆笑。6.この映画を観ているあいだ私に見えたのは「すべてを包み込むやさしさ」でも「ゆるぎない女たち」でも「強さと怖さを併せ持った母性」でもなくて、「とにかくひたすらに後戻りできない[生きること]に徹するなにかよく分からないもの」で、そのよく分からないものにはたぶん、包み込むも包み込まないも、許すも許さないもないから、包み込んでいたり許していたりするように見えるのだろう。少なくとも私には健児の母親が「今日は負けましたけど、次まだ2戦あるんで、気持ち切り替えてそれに集中するだけです」と負けた試合後のインタビューに答えるスポーツ選手または監督のように思えたし、そういうふうに描いてもあった。包み込むのも許すのもまずはそのへんに「置いて」おいてとりあえずいまは次の試合のことなのだ、という「いま」が終わりなく続くので、包み込むのも許すのもそのへんに「置いて」おかれたままになるから、たぶん、包み込むも包み込まないも、許すも許さないもなくて、だからこそ逆に包み込んでいたり許していたりするように見えるのだろう。実家に帰った時によく思うのだが、その「家」に「新しい命」があるかないかはとても大きくて、それがあるかないかで「家」の勢いというか生命力というかそういうものが全然違う。だから「家」という単位の社会というかそういうひとつの生き物が生き残っている田舎は都会に比べて(「家」が生き延びるために)結婚が重要でだからみんな結婚が早いのだろうか、とはいってもこれは別に田舎に限ったことでもないような気もしてきた。7.シネマート心斎橋サッドヴァケイション17時の部の観客は私と誰だか分からない知らないポンプフューリーを履いた大学生らしき男性の2人だけで、ガラガラにも関わらず前後は適度に前過ぎず左右は真ん中あたりに座ろうとすると真ん中あたりで2人肩を寄せ合って観るみたいになってしまいそうだったので列だけはずらした。一晩経って、パンを焼きながらコーヒーをいれて、その前にコーヒー豆を挽いて、その前に洗い物をして、その前のトイレに行ったときに、犬童なんとか監督のオダギリジョー柴崎コウが出ているあれはなんだったか、もう一度考えてみたが全然分からなくて、よかった分からなかった、と油断したら、メドンドヒミコというタイトルが出てきてしまって、たぶん、「メゾン」の代わりに「ハウス」っていうのが取り出されてきていたため分からなかったのだろうし、今週のコーヒー豆はなんとかマンデリンというやつで、そのなんとかの部分は確かローマ字3文字で、FPMとかCPMとかそんな感じで最後にMがあったような気がするがこういう場合そういう最初の手がかりそれ自体がそもそも間違っていたりするから思い出せないのだが、とにかくそのローマ字3文字が意味するものは、コーヒー豆の農協というと少しニュアンスが異なるかもしれないが組織的に農場を管理して豆を出荷するなにやらそういう組合のことだと、私はオキムラさんの説明で理解した。