今日はFLOATにて、大和川レコード×米子匡司「テレビをみる日」です。
http://tv.chochopin.net/

今日の朝5時から明日の朝5時まで、ずっとテレビをみて、その模様を動画でリアルタイム配信するらしいです。ひとつ気になるのは、チャンネル権は誰にあるのか、ということ。

私はいま起きたので、パンを食べて、シャワーを浴びたら阪神電車に乗って行きます。阪神電車だと鉄道会社間の乗り換えがないし、なにより鉄道会社間の乗り換えがないからか、安いのです。いまさっきサイトの動画中継をみたら、吉本の、えー、度忘れした。なんだっけ。新喜劇だ。新喜劇をみているようでした。

「テレビをみる日」

2008年11月1日(土)

午前5時 - 翌午前5時

・会場 : 安治川倉庫 FLOAT (http://float.chochopin.net/)

・入場料 : 無料

大和川レコード×米子匡司による『テレビをみる日』。

大和川レコードと米子匡司が11月1日(土)に放送されるテレビ番組を、

放送開始〜終了まで観賞します。

その様子を、リアルタイムにインターネット上の特設サイトにて動画配信します。

途中、何人かのゲストをお迎えし、

テレビ番組について、テレビに関するさまざまな事について話します。

・URL :  http://tv.chochopin.net/

・出演 :

  - 大和川レコード(日常編集家/アーティスト)

  - 米子匡司

・ゲスト

  - 市川ヨウヘイ(古本屋メガネヤ店主)

  - 岩淵拓郎(美術家 / 執筆・編集者)

  - 小田寛一郎

  - 甲斐賢治(NPOrecip / NPOremo)

  - チェルシー杉本(元レコード屋店主)

  - 松本渉

▽イベントへの参加方法

このイベントに参加するには、以下の2つの方法があります。

○a 11月1日(土)午前5時〜翌午前5時までの間に、

http://tv.chochopin.net/ にアクセスしてインターネット放送を見る。

サイトにコメントを書き込む事もできます。

○b FLOATへ行く。 イベントの鑑賞はもちろん、

ご希望の方はゲストとして参加していただけます。

イベントはまだまだ、朝5時までやっていますが、阪神の終電で帰ってきました。16時ごろ着いたらよなさん1人で、なにかしゃべっていて、そこからダラダラとテレビをみつつしゃべったりしていたら、18時ごろ市川さんと岩淵さんがチャリで来て、ほいで4人でダラダラとテレビをみつつしゃべったりしていたら、アサダ君がチャリで来て、ほいで5人でダラダラとテレビをみつつしゃべったりしていたら、ふうせんイベントを終えた蛇谷さんが徒歩で本町からやってきて、ほいで6人でダラダラとテレビをみつつしゃべったりしていたら〜〜〜〜、というふうにだんだん人が増えて、私が帰ることには甲斐さんも来て10人くらいかしら。いま気付いたけど、チェルシー杉本さんが来てないっぽくて、来たのかな。松本さんは午前に来て、いったん仕事に行って、それから夜にまた来たらしく、さんま御殿のカメラワークを分析したりしていて面白かった。たこ焼き、たこ焼き、たこ焼き、肉団子。マルクス資本論 1」は「第一部 資本の生産過程 - 第一篇 商品と貨幣 - 第ニ章 交換過程」が終わり、この章はかなり短め、「第三章 貨幣または商品流通」に突入。いま気付いたが、「貨幣」と「商品流通」を「または」でつなぐっていうのはどういうことなのだろうか。保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は「9 のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」をひきつづき、さっき、セザンヌがでてきた。東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」は「第一章 幽霊に憑かれた哲学」の「3」に突入。といってもここ2、3日は読んでない気がする。主に資本論。とある「芸術家集団」がなにやら問題になっているらしいというのは、ネットで小耳にはさんでいたけれど、別に調べる気もなく、とはいえさっきうっかりその内容に触れてしまって、どうやろ、なんともいえず。こういう場合、作者がなにを言おうと、結果的にどこまでが「作品」なのかよく分からなくなって、謝罪を含む事後処理やこうして話題の対象になることをも含め「作品」だと捉えてしまうことをもできるだけに(パンタロンでの大和川レコード×米子匡司にもそういう面があった。書き忘れたけど。別に内容に問題のある要素を含んでいたというわけではなくて、今回のパフォーマンスについて謎のビラが配布されたが無関係である、と大和川レコードのブログに書いてあったり、とか、そういうこと)、これはたぶんなにが作り事でなにが作り事でないか、という区別がもう必要とされていないから、ウソかそうでないかはもう関係ないから、というのもあると思うけど、あとは、「芸術」とはいえモラルというかデリカシーのようなものを持つべき、という考えにも、その内容はどうあれ「なにかしらの」反応を引き起こせばそれは「芸術」である、という考えにも、しっくりこないし、「表現の自由」とかいう観点自体がすでに「表現」なるものの限界を表しているような気もする。いや、どうやろ、分からんことについて書くとおうおうにして余計分からんことになるので、どうやろ。というか今日の昼頃シャワーを浴びていて、ざっと髪を流して洗髪するべく、洗い場の壁と浴槽の角に置いてある、シャンプーとコンディショナーを置いたりするラックというかタワーの最上段に手を伸ばしたところ、シャンプーとコンディショナーのボトルの配置が入れ替わっていて、いつもはシャンプーが手前、コンディショナーが後ろなのだけれど、このときはコンディショナーが手前、シャンプーが後ろになっていて、このことに気付かずいつものようにプッシュしてシャンプーだと思っているが実はコンディショナーを手にとり髪の毛につけてワシャワシャしだしてからなんじゃこりゃ!となる前に今日は気付いて、たまたま今日はボトルのラベルを見たからだけど、なぜそんなことが起きるのか。なぜたまーにシャンプーとコンディショナーの位置が変わるのか。少なくとも私は動かさないし、そもそも動かしたらシャンプーとコンディショナーを間違うのは、毎回シャンプーかコンディショナーかということをラベルを見て確認しているわけではなく、その位置で覚えているというか、手前はシャンプー、後ろはコンディショナー、であろう、ということを信じて行動しているからで、その位置そのものが入れ替わると間違う。なので、私は絶対に動かさない。ということは姉ちゃんか妹がたまになんらかの理由により動かす、ということになるのだけれど、これ以外の可能性として、枕返しならぬシャンプー・コンディショナー返し、といったような妖怪がいるかもしれない、とさっきお風呂に入りながら考えた。このときはシャンプー・コンディショナーはいつもの配置だった。たぶんお昼に私がシャワーを浴びてから、誰も浴室には入っていない。