クロード・レヴィ=ストロース「神話と意味」のまえおきより

私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするかとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です。

私も「私が」どうするかとか「私を」こうするとかいうことではなくて、何かが起きる場所としてできるだけ開かれているための努力しかできないと思っているけれど、「ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。」ということばをポジティブに捉えなくてはいけないと思う。ほかの所で起こる別のことは「そこ」でだけ有効なわけではなくて「ここ」でも同じように有効なのであって、「そこ」でだけ有効なものとして受け流すものではない。東浩紀「文学環境論集 東浩紀コレクションL」の緑かピンクかどっちか忘れたがブックガイドのところを立ち読みしていて、若い頃から他人の意見を「受け流す」のはおすすめしない、というようなことが書いてあって、私も本当にそう思う。なんか高校の頃くらいから私の周りというか私ぐらいの世代のはなしなのかもしれないが、他人を受け流す、他人の意見を受け流すのがスマートな生き方で「自分が確立している」というようなな意識がぼんやりと蔓延していて、やっとそれが何かちょっと分かってきたように思う。要するに、他人のことはとやかく言わないから自分のこともとやかく言わないでください、ということであって、他人が何をやっても放っておくから自分が何をやっても放っておいてくれ、ということである。こういう人は、なにかしら踏み込んだはなしをし始めるととたんに面倒くさがって「人それぞれだから自分には関係ない」という素振りを見せるからすぐ分かる。前にもここで書いたような気もするが、「人それぞれ」という言葉は、「自分の」興味の無い物事について考えている時間などないと言わんばかりに、他人に対する否定的理解として、自分とは関係のないものとして線を引くために使われているような気がするがどうなのだろうか。誰かの問題を自分の問題として(のように)考えることでしか自分の問題は考えられないような気がするがどうなんだろうか。