『「本店の者です、現金を」神戸、コンビニ2店詐欺被害』のコンビニのうちひとつが近所だった。テレビやネットやなんやによって伝達されるニュース(情報)を見ていると(新聞は意外にそうでもない気がするがなぜなのか)、自分にまったく関係のない事柄にうっかり関与させられているような気になる、というか、実際にはそうなのだけれど、とにかく、そんなこと知らんがな!という気分になることがあるのは前にも書いたとおりで、これは「スペクタクル」がどうとかいうのと関係があるのか。風呂のお湯がたまるのを待ちながら、ギー・ドゥボールスペクタクルの社会」「Ⅰ 完成した分離」読了。しかし、ややこしい言い回しだ。風呂では、山脇直司「公共哲学とは何か」「第2章 古典的公共哲学の知的遺産」を2/3くらいまで。アテナイのポリス、アリストテレスストア派キリスト教ホッブズ・ロック・ルソー、スコットランド啓蒙思想(ヒューム・スミス)とフランス啓蒙思想(ケネー・チュルゴー・コンドルセ・サン=シモン)、カントとフェヒテ、ヘーゲルときて、残りの1/3は儒教墨子朱子学、江戸時代(中江藤樹・熊沢蕃山・伊藤仁斎荻生徂徠石田梅岩・安藤昌益)、幕末(横井小楠)。ケネーとチュルゴーは初耳。コンドルセは「社会選択論」つながりで、アマルティア・セン「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」の訳者による解説に出てきたので知っている。最近は、やたらと姉ちゃんがキウイを買ってくる。同じものをしばらくずっと食べ続けて飽きる、というサイクルを繰り返している気がする。だいぶ前には、「暴君ハバネロ」をやたらと買ってきていた。「制度」というものを「ゲームのルール」のようなものだと捉えるととたんに面白くなくなる、と時々ぐうぜん遭遇するIさんが言っていて、それはたしかにそうだと思った。制度によって実現されるものは、ゲームとはちょっと違うだろう。ゲームで可能なのは、設定(ルール)に忠実に遊ぶか、ルールや設定をいじる「メタ」ゲームをするか、の二択しかないので、ものすごくつまらない。どっちも結局は、ゲームに自己同一化するのが目的でしかないように見えるから??ときどき遭遇する状況なのだけれど、誰かに現在の自分の境遇を説明する必要が生まれて、ということはその誰かと私は現時点ではとくに親しいわけではないということなのだが、そこで「定まった職はない」ということを説明すると、相手の反応の基本的なスタンスが「そんなのずるい」であることがたびたびある。といっても、私が堂々と説明するから余計に「ずるい」と感じるのだろう。もし仮に居心地悪そうに「仕事がなくて・・」と言ったら同情はされるだろう。でもそれは建前だけだろう。仕事がないのはお前が悪いんだろ、というふうに、すべての原因を個人に押し付ける「自己責任」なるものが、思いのほかみんなに浸透しているから。「ずるい」っていうのは、自分はちゃんとやっているのに、なんでやってないんだ!ということなのだけれど、小学校の頃からこういうのはある。クラブを一日休んだだけで「ずるい」と責められるとか。あれ、なんだったんだろう。子供ながらに気持ち悪かった。自分もそう思ってしまうだけに、なおさら。いいじゃん、別に休もうと。「どうしてもできない」人にまで、「ずるい」と責めたりもするし。これがいちばん問題か。私は「どうしてもできない」わけではないのだけれど、「どうしてもできない」人に対してまで、そういう態度で臨むのはまずいような。ほんとに「固定観念」ってあるんだなー、と確認。なんとなくみんながそうだから自分もそう、という判断を、自分だけで決めた判断のように思ってしまうのはなぜだろう。そもそも、他人のことを他人の立場で考える、ではなくて、他人のことを自分の立場からとやかく言う、ばっかりなのは、なんなのだろうか。もちろんそうじゃない人もたくさんいる。でも、すくない。私もそうなっていることがときどきある。しかし、なんなんだろうなあ、こういうふうに、変なふうに他人のことばかり気にしてしまうのは。