そういえば、このあいだ、「草食系男子」というのがなにかも分からずになんとなくのイメージ、優男?のイメージで使ってしまったけれど、内田樹さんのブログに「草食系男子」の話題があって読んでみる。内田樹の研究室「草食系男子の憂鬱」(http://blog.tatsuru.com/2009/06/23_1951.php)より。教え子のゼミ生に聞き取りをして出てきた「草食系男子」の特徴。

すぐ泣く。
拗ねる。
「どうせぼくなんか・・・」といじける。
かわいこぶる(齧歯類系の「かわいさ」を演じるのが上手)
メールに顔文字をたくさん使う。
優柔不断で、「何食べる?」「どこ行く?」といった質問に即答できない。
化粧品にうるさい。
肌を美白に保つことに熱心。
ヘア命(ヘアセットができてない姿を見られると、スッピンの女性のように身もだえするらしい)
家族と親密。
などなど。

らしい。wikipediaの「草食系男子」の項で挙げられている特徴とは微妙に違う。wikipediaの「草食系男子」の項より。

草食系男子の主な特徴とされるものは以下の通り。

・恋愛やセックスに縁がないわけではないのに、積極的でない
・女性を単なる異性対象ではなく、ひとりの人間として平等に尊重する傾向が強い
恋愛至上主義的な風潮に踊らされずに、家族や仲間と過ごすのを大切にする
・傷つけられたり、他人を傷つけることを嫌い繊細である
・恋愛に使わないエネルギーは趣味や仕事、ファッションに向かう
・女性に誘われれば旅行やショッピングに同行するが、恋愛に発展しないことが多い
性風俗を無駄なことと思い、お金を使わない
・いい人止まりになりがち
・女性と一晩過ごしても何もせずに普通に寝る
・外出より部屋にいる方が好き
・甘いものや料理が好き
・国内旅行は好むが海外旅行に対する興味は薄い

wikipediaの方は、というか、もともとの意味合いとしては、恋愛に対する考え方の分類っぽい。内田さんのゼミ生による特徴とwikipediaによる特徴について、それぞれ自分自身に照らし合わせてみると、前者においては「家族と親密」くらいしか当てはまらないのに対して、後者においては「部屋好き」と「国内旅行好き」を除いてほぼすべて当てはまる。この違いはなんだろう。それにしても、すぐ泣く、拗ねる、いじける、かわいこぶる、化粧品にうるさい、ヘア命、、、、、面倒臭いな、こんな男子。ヘアセットなんか、やらんけどな、めんどくさい。あと、内田さんは、『草食系男子の生存戦略の基本は「様子見」である』として、それと「実存主義」=「宣言主義」=未来を担保に自分の潜在的能力を開花させる、ことを対比させている。とはいっても、自分の潜在能力を開花させるのに有効なツールは「宣言主義」しかないわけではないし、中途半端な「宣言主義」は、いまや「何も言わなくても自ら進んで消費してくれる都合の良い消費主体」として搾取されかねないし、社会とうまくやっていけない「夢追い人」・「「夢」に殉じる人」を大量に発生させてしまうかもしれない。むしろそちらの方が問題だと思うけれど。おそらくは、内田さんの時代といまの時代が違う、というとなんか陳腐だけれど、とにもかくにも「宣言主義」が機能するためには「ゼロからものを考え自分の責任で実行していく」という個々の基礎能力やそれを必要とする社会状況が必須であると思うのだけれど、なにもかもパッケージ化されて、なにを「宣言」するかすらカタログ(データベース?)のなかから選べたり、「〜になる」・「〜をやる」やり方でさえパッケージとして売られているような時代であるので、ほぼあらゆる「宣言」が経済に取り込まれてしまうというか、だからこそさきほど書いたような能力を持っている人なんてそうそう現われようもない。そもそもそのような能力や考えをもたずとも、個々の「宣言」に応じたプログラムを消費するだけで、なにかやれているような気になれてしまうし、それでいいのだ、売り手も買い手もみんなそれで満足、というのが、「いま」のような気がする。もちろん死ぬまで「様子見」というのもどうかと思うけど、だからといってうかつに「宣言」して消費に追い立てられるのもごめんだ。いままで「宣言」というほど「大きな目標」なんて持ったことなくて、個々の案件ごとの締め切りがやってきて、案件ごとに締め切りいっぱいまで考え続けた結果が積み重なっているだけ。なにかの目標に向かって積み重ねているわけではないし、やりたいことがあるとするなら、いろんな種類の案件を締め切りいっぱいまで考え続けたい、というだけかもしれない。「なりたいわたしになる!」なんてみみっちい潜在能力の使い方はしたことがないが、もっと一般的な人間の潜在能力は信じている。自分でも思ってもみなかった自分になるのが、いちばん面白い気がする。そういうわけで、スピッツ夢追い虫」を聴いてみる。レンタル屋で買ったシングル。たぶん川西のツタヤで。2曲だけのシングルだから、もう終わった。土曜日に出かけるべく駅に向かっていたら、見ず知らずの若い女性からこんにちはと声をかけられ、よく分からぬまま会釈をしたが、それを見ることもなくその女性はさっさと歩いていってしまったし、そういえばこの前もこの人にこんにちはと言われた気がするが、まったく見知らぬ人。発音の感じからして、日本の人ではないかもしれない。いまTattakaさんのブログの「ブログ日記について」(http://d.hatena.ne.jp/Re-TATTAKA/20090614)を読んでいま少し思ったことを書いておこうと思って、ブログっていうのは、あくまでバーチャル、もっというならフィクション、人間のあるいち側面を切り取らざるをえないという意味での、だと私も思っているのですが、いや思っているというより、そうである、というだけですが、とにかくこの日記上での「私」と(それを含む)現実の「私」はまるで違うわけで、とはいえ、現実の「私」もその時々の状況によって「あるいち側面を切り取られて」いるのですけれど。私がこの日記を書くのは、とりあえず思ったことを書いていくこと、と、日記上の「私」と現実の「私」との相互作用によって、他人から見た「私」という人間に対するイメージが固定するのをどうにか避けたいというか、それ以上に自分で自分イメージを固定してしまわないように、というのが大きいです。頭のなかだけで自分で自分に反論するのは、けっこう難しいです。あと、現実で私に近いひと、家族や親類、恋人など、は、私の日記を読んでいません。何人かの友達は読んでくれているみたいですが、そのばあい、現実とテクスト上での「私」はわりと断絶なく認識してもらっているような気もします。この日記だけで「私」を知っている人は、どういうふうに思っているのか、気にならないことはないですが、とくに気にはなりません。ほんと、この日記を書いている人間は、テクスト上の別人というか、自分でもまったくの別人だと思います。あと、テクスト上の別人の方がより極端な気がします。それで、毎回、いやそれは強引だ、とか、極端だ、とか、不当な単純化だ、とか、だからなんなんだ、とか思いつつ考えごとを続けます。