ミスドと吉祥寺までの電車の中でどのくらいの時間が経っているのかは分からないが、
諏訪哲史「アサッテの人」とここまで書いたところで、壁にゴキブリがいるのを発見したので
キンチョールと熱湯でもって退治したのだが、なぜゴキブリが家にいるのがそんなに嫌なのかいまひとつ分からないが、
分からないにも関わらず出没したら退治しなければいけないと思ってしまう。
もちろん私はミスドと吉祥寺までの電車の中ではなく、深夜に自宅の布団の上でごろごろしながら2時間くらいで読んだ。

私のように美しい 2007-07-25より

基本的に語り手の書いた小説『アサッテの人』の草稿と叔父さんの日記で構成されているのがこの『アサッテの人』という小説なのだけど、そうやって幾重かの語りに落とし込むというのはどんどん語りを閉じたものにしてしまうような気がして、何か読んでいてムカムカした。手記というのはそれ自体で完結したものであって、手記の内容や書かれ方を読者は云々できない。極端な例だけれども誤字脱字があったとしても、読者がそれを突っ込むことは虚しい作業になる。というのは、その手記の文責は作者ではなくて、すでに手記の書き手に転嫁されているためで、だから作者がすごい落ち着いた場所で小説の作者になれるんじゃないかと私には感じられる。

「文責は作者ではなくて、すでに手記の書き手に転嫁されている」というよりも
どっちかというと、すべてが作者の作為として「わざと」したことになってしまうように思った。
たとえ語り手の書いた小説『アサッテの人』の草稿や叔父の日記がつまらなくても
現実の「アサッテの人」の中でひとつの作為として「わざと」つまらなくしてある、ということになる。
ひいては現実の「アサッテの人」がつまらなくても
作者の中の現実の「アサッテの人」の中でひとつの作為として「わざと」つまらなくしてある、ということになりかねない。
もちろん小説なんてものはすべて「わざと」書かれているものだけれど
その「わざと」の位相がここではちょっと異なるものとして使われているというか、
もっとちゃんと考えたら分かるかもしれないし私には分からないかもしれない。
本文が『アサッテの人』の草稿、叔父の日記と手記の注釈と解説のように機能している以上、
それは先回りのひとりツッコミというか、そういうものになってしまって、それが
「その手記の文責は作者ではなくて、すでに手記の書き手に転嫁されているためで、
だから作者がすごい落ち着いた場所で小説の作者になれるんじゃないかと私には感じられる」
んじゃないかなあと思う、結局どっちも一緒だけど。
とはいっても、保坂和志の小説、特に「カンバセーションピース」なんかにたまに出てくる
語り手の語りを借りた保坂和志本人の語りよりもかったるくなりにくかったとは思う。
「アサッテ」なるものについての記述は叔父の語りを借りていたからとはいっても、
もう少しドライな方が良かったような気もするが、ドライに書きたくなかったから叔父の語りにしたんだろう。
「アサッテ」なるものを単純に日常とそうでないものの二項対立と、そこから生じるものとして描いてはいけない、
けれども結局はそういう対立をベースにして遠巻きに眺めることでしか示せない、
というモゴモゴした感じが面白いと思った。
こういうのを「無意味」とか「シュール」とか「脱臼」とか「ダダ」とかいうとすぐに絡めとられる。
読み終わったあと、なぜか古本屋で買って半年くらい放置していたベケット「モロイ」を読み始めて
先に訳者解説を読んでいたら、諏訪哲史「アサッテの人」は本文と訳者解説がごっちゃになったようなものだと思った。