最近、佐々木敦さんの本をいろいろと再読している。
どれも最初読んだ時は分かりきったことを改めて整理しているだけじゃないか、と思ったりして、
でもそれはその時の私が自分の「分かるところ」だけしか読んでいなかったからで
むかし読んだはずなのに、いま読むととても重要な箇所を読んだ覚えがなくてびっくりする。
私が一年かけて毎週の休みに外へ出かけて録音し続けてぼんやりつかんだことが
すでに書かれていてびっくりもしたし、言葉による思考だけで
実感を伴いつつここに辿り着けること自体がそもそもびっくりである。
「(H)EAR-ポストサイレンスの諸相-」「「サウンド=アート」の境界設定」でのジョン・ヒューダックに関するくだり

「音」が「私」に「世界」を発見させるとともに、「私」を「世界」へと繋ぎ止める。
「音楽=芸術」が起動するのは、その後でも構わない。
「世界」は今も、振動している。


今日は三宮の皓祥館書房にて諏訪哲史「アサッテの人」、
ジュンク堂にてクロード・レヴィ=ストロース「神話と意味」を購入。
「アサッテの人」はすぐブックオフに出るだろうと思っていて
というのは「〜〜賞受賞作」っていうのはある時期を過ぎると
ブックオフとか古本市場とかに大量に出回るような気がするからなのだが
普通の古本屋で見つけたのはちょっと意外だった。
私が買ったのは、しおりのひもがページの真ん中あたりに挟まったままで、
おそらくちょっとだけ読んで挫折したか全く読まれなかったのだろう。
「私のように美しい」を書いている方のように
私のように美しい - 2007-07-25「前夜」より

ミスドと吉祥寺までの電車の中で読み終わってしまって

なんてことは絶対に無理なのだけれどもまあぼちぼち読もうと思う。
あと、同じ日の

つまるところ『アサッテの人』という小説を書く語り手を導入した時点で『アサッテの人』の作者の諏訪哲史はこの小説にほとんど何の責任も持たないで済むような場所に行っちゃっているのではないかと思って、そんなふうに誰からの非難も受け付けないような、安全な場所にいて、彼はこの小説をどうしたいのか。腹が立つ。しかもいろいろと鼻につくので難しい熟語とか使わないでもらいたいし、知らない熟語とか使われるとムカッとするので使わないでもらいたいし、とにかくうらやましいので腹が立つ。しかも何がいけないって、わりとこの作者のやりたいことというか作為のあり方が私にもわかるというか、わりと同じような地平に立っちゃっているんじゃないか問題の立て方として、と思ってしまうので、そのような私のつまらなさにも腹が立つ。自分に腹を立てても仕方がないので諏訪哲史に腹を立てることでよしとしたい。

というのはこの小説をまだ読んでいないけれど、私も身に覚えがあるというか
そういう問題の立て方については私もわかるし、自分でこれじゃつまらないなあとも思うので
そういう意味で、私も身に覚えがある。
ジュンク堂でみつ君と偶然遭遇したので高架下の「グリーンズコーヒーロースター」でカフェオレを飲み
別れたあと、自転車に乗りながら、
ケージが「4'33"」で、ピアノの蓋の開け閉め(楽章の区切りを示すこと)を
必要としたことについて考えた。
楽章の区切りを示すという「物事の変化」そのものが時間であり、
変化という時間を構成することがそのまま作曲(音楽)であるということ。
そしてまた、このことは、
音楽は、
「物事の変化」そのもの、つまり「時間」と、
それを為しさらに為されるところのもの、つまり「空間」によって成る
という認識を基に成り立っている。
ケージは「4'33"」において、音による構成は行わなかったが、
楽章の区切りを示すという「物事の変化」による構成を行った。
そしてこれがそのまま作曲(音楽)であるならば、
音楽に必ずしも音は必要ではなくなるということでもある。
というより、そもそも「物事の変化」の堆積を音楽と呼んでいたというだけである。
そして、大抵の場合の「物事の変化」には、音が伴っているというだけである。
また、
「物事の変化」そのもの、つまり「時間」と、
それを為しさらに為されるところのもの、つまり「空間」によって成る
のは音楽だけではない。
私たちが経験するこの世界もそうではないか。
ここで、すべての音(音楽)=すべての物事の変化=私たちが経験するこの世界
というような図式を出してみるのは強引なことなのだろうか。
ケージが描き出そうとしたのはそういう感じ方なのではないだろうか。
全ての音(だけ)を(狭義の)音楽に取り込んでゆくような、
(狭義の)音楽が全ての音(だけ)に分解されてゆくような、
音と音楽を同時に殺すプログラムなんて
ケージは望んでいなかったのではないだろうか。