またもや福居伸宏さんのÜbungsplatz〔練習場〕から
引用をコピペで引用は孫引きなのか引用なのかどちらなのかなんなのか。
いちおう佐々木敦「テクノイズ・マテリアリズム」は読んでいる。

「選択」と「認識」がなければ、「音」は「音楽」にはならない。ところで、「選択」すなわち「認識」であるケースもありえる。他ならぬ<4分33秒>がそれだ。そこには時間と空間の限定という「選択」があり、それがそのまま「認識」の引き金にもなっている。フェラーリとケージは、実はほとんど同じことを言っている。違いがあるとすれば、ケージが「音楽」を「音響」へと解放してしまおうとするのに対して、フェラーリは「音響」を「音楽」に取り戻そうとしている、ということだろうか。いや、よくよく考えていると、両者の主張はぐるぐる廻っているだけのようにも思える。

佐々木敦「テクノイズ・マテリアリズム」より


「選択」と「認識」がなければ、「音」は「音楽」にはならないということよりも
ここでいうケージとフェラーリの堂々巡りの方が重要だと思う。
この堂々巡りについて考えることは直接音楽について考えることに繋がるのかもしれない。
この堂々巡りについて考えることは
「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」に知らず知らず含まれていたことでもある。
音楽がどうやって始まるのかにこだわりすぎているような気もする。
「音」と「音楽」にとっての「選択」と「認識」という構図に
なにかあたらしい視点を持ち込まないとそのうち
この堂々巡りの意義も少しづつ失われていってしまうかもしれない。
そう思うとケージとフェラーリの堂々巡りだけでなく
鈴木昭男の「点音」についても気になりだす。
鈴木昭男の「点音」は
(どこで聴くかという意味での)リスニングポイントを設定することで
「選択」と「認識」のプロセスを起動させる。
フィールドレコーディングは
レコーディングポイントの設定と録音によって
「選択」と「認識」のプロセスを起動させる。
環境音を起点にしたプロセスの起動という意味では
「点音」とフィールドレコーディングはほとんど同じものだと思う。
聴くのがヒトか機械か、いま聴くかいつか聴くかの違いはあるが。
ケージの「4分33秒」は
(なにを聴くかという意味での)リスニングポイントを設定することで
「選択」と「認識」のプロセスを起動させる
というよりも「選択」と「認識」のプロセスを意識させる。
私が日々行っている野外録音を記録した
「ご自由にお持ちください」(便宜的にそう呼ぶ)の
「選択」と「認識」のプロセスはこれら3つの方式が
絡まりあっているもののように思える。
レコーディングポイントの設定すなわちリスニングポイントの設定があって
次に屋外にハウリングさせたコンピュータを置いてその模様を録音するという
二重の(なにを聴くかという意味での)リスニングポイントの設定があって
そもそも二重に設定することはたぶん設定とは言わなくて
どっちも可能性としては聴ける=どっちも聴けない、ということかもしれない。
ハウリング音を聴くもよしそれが鳴っている屋外の音を聴くもよし一緒に聴くもよし
しかし少なくともハウリング音が屋外の音を引き立てたり
屋外の音がハウリング音を引き立てたりすることはたぶん起きていない。
そしてカセットの音を聴かなくても成り立つ受容の態度もおそらくある。