なんだかわからないけど、いつもいつも芸術芸術いっていて、すくなくともこの日記においては。ふだんはぜんぜんそうじゃないけど、わりと芸術に関する本も読んでみていて、芸術っていったときにぼやっと考えているのは、なんだろう、人間がなにかをつくること、なにかをつくることで自分を含む自分以外にはたらきかけること、っていうのは、いったいなんだ、ということなのか、どうなのだろう(そうでもしないと、なんでもかんでもひっくるめて、つまり個々の芸術作品/行為を無視して、「芸術」の一語で語ることはできない)、でも本を読んでみたりすると、ぼんやりと歴史みたいなもんも見えてきて、面白いもんで、なんだろうな、芸術っていうのは芸術史を知らないと分からない、っていうのはけっこうほんとだな!と思えてくるし、知識=道具・武器もなしに、徒手空拳で挑んでいくのは無謀でもある(でもそういう知識=武器だらけの「戦争状態」はどうかと思う)。現代美術に限らず、最初からそうなのかもしれない、とも思えてくるし、目で見て気持ちいい、耳で聴いて気持ちいい、体験してみて気持ちいい、っていうのは、とても大事だけれども、それだけが肥大していくのもどうかと思って、いろいろ読んでみたりしているわけで、といっても「感覚」と「概念または論理」を対比しているわけではなくて、「概念または論理」にも、こういう概念=コンセプトが気持ちいい、なんてことがありうるわけで、気持ちよさの好き嫌いで考えると、概念=コンセプトでさえ実体化されてしまい「味わう」ものになるし、これはこれでいいんだろうけど、概念=コンセプトが思考の出発点ではなく終点になるというか、たんに愛でるための概念=コンセプトになってしまう、という。自分で概念=コンセプトをなぞることをせずに鵜呑みにすると、たぶん、こうなる(ちゃんとなぞれるようにしないのも悪いけど)。これはやはり「気持ちよさ」の感覚が肥大している、といわざるをえない、おお、はなしがずれてずれている。芸術っていうのは芸術史を知らないと分からない、っていうのはけっこうほんとだな!と思えてくるし、知識=道具・武器もなしに、徒手空拳で挑んでいくのは無謀でもある。ということで、これがなぜかというと、私たちが共有していると思っている、常識とか概念とかは、個々のレベルではわりかし簡単に変化していてすぐにズレるものだし、それが何百年か隔たった人間同士であればなおさら違う。もちろんどれが「最新」とかいうもんでもなくて、たんに、他の人が持っている常識とか概念とかに照らし合わせてみないと、自分が持っている常識とか概念の質も見えてこない、というだけで、だからなんだろう、独り言だとすぐこうなるけれど、とにかく次へ。「気持ちよさ」という判断基準はとても大事で、それがなぜかというと、それは自分の「受け入れる/受け入れない」の基準でもあるからで、自分がどう感じるかによって、自分の「前提」が分かる。とかいうとちょっと屈折してる感じなのか。どうやろ。「好き嫌い」ってアレルギーみたいなもんで、ある「型」が自分のなかになんかのきっかけでできたとして、その「型」に合う刺激がやってくると、判断うんぬんではなく反射みたいな感じで反応してしまって、それが「気持ちよさ」として感じられるのだと思うけれど、私はキリンジの音楽が無条件に好きなので、キリンジに関してはそんな感じ。でも、無条件に=思考停止、っていうことなので、キリンジの音楽を聴くのは楽しいけれども、一方では楽しくはない。あとは、なんだろな、なにかを好きっていうとき、それを好きな自分が好きっていう場合もあって、それってどうなんだ、とも思ってしまうので、困りものか。また関係ないはなしだな。自分の「趣味」、自分の「感覚」、自分の「経験」、自分の「判断」、自分の「言葉」、自分の「考え」、自分の、自分の、自分の、という反復・循環が「自分だ!」っていうのが、なんか変なんだろうな、たぶん。あとは、なんだ、なにかを強烈に好きだと、それと対立するなにかを強烈に嫌わないといけないわけで、それがまずしんどい、というのがある(他のなにかと対立しないなにか、って、ない、ような気がする。対立とまではいかなくても、反対にあるもののないものはない)。そしてややこしいのは、好きだ、というのにも気持ちよさがあるけれど、嫌いだ、というのにも気持ちよさがあって、なにかを嫌うためにそれと対立するなにかを好きになる、みたいなことも起こりうるわけで、これはわりとややこしい。なので、興味を失わない程度に、好きでも嫌いでもないものを増やしていくと、わりといろいろなものを嫌わなくてすむ。なにかを強烈に好き、ということよりも、なにかを嫌わなくてすむ、という方法を、いまのところ、採用しているわけで、でもうっかりすると、強烈な無関心が襲ってくる恐れがあるので、ちょっと危険。なにかに強烈にこだわる、なにかを強烈に好き/嫌い、っていうのは、生きるエネルギーなのかもしれない。フェイクシティっていう映画のCMで、キアヌ・リーブスさんが主役で、したがってキアヌさんの映っているシーンからCMは始まるのだが、にも関わらず「市川海老蔵です、なんちゃらかんちゃら(映画の宣伝)」という市川海老蔵さんによるナレーションが入るため、「市川海老蔵」と名乗るキアヌ・リーブスさん(に似た男)が映画の宣伝をしている、みたいな印象。これが、「おすぎです!」で始まるおすぎさんのナレーションなら、こんなややこしくならないわけで、おすぎさんの声には特徴があるから。海老蔵さんだとどうしても男前の声なので、かえって吹き替えみたいな感じ。kolorのカーディガンですかー。kolorってビショップに置いてある気がする。カーディガンは見たことないかも、というか、カーディガンを着ないので、見て見ぬフリをしたのかもしれない。いや、着ない、んじゃなくて、着方が分からない、というか、可愛い感じとか優等生の感じとかになるのが嫌なのか、いや、そういうイメージを勝手に持っているだけで、実は去年の夏にカーディガンを着た。薄手の羽織りものを欲しかったので無印でTシャツ地みたいなのを買ったけど、これはあんまり良くない。。いまググってみたけれどkolorのカーディガンは良さそうだ。去年の夏、地下鉄谷町線の車内が寒かったので、黄色のポロシャツの上に薄いグレーのカーディガン(さっきの無印の)を着たら、なんだかしっくりきたが、どこかメンズノンノだった。。黄色のポロシャツを着ると、コムスンみたいんと必ず言われるし、私もそう思う。ズボンは太いのの方が楽なので好きです。ずっと前は細い、とまではいかずとも、わりあい細めのやつばっかりだったけれど、太い方が楽だと思ったので、もっぱら太いズボンか太すぎず細すぎずです。神戸駅のとこにあるでかいユニクロで見た水色のチノパンはけっこういいなと思いましたが、店内にあるモデルさん着用イメージ写真では真っ白いジャケットに水色のチノパン(ロールアップしてローファーみたいなの)、って感じで、こりゃどう着たらいいのか分からなさそうではあるけれど、たぶんジーパン気分で履いたらいいのだと思われます。というか、父ちゃんがこういうチノパンを履いていたような気もします。真っ白いジャケットに水色のチノパンでロールアップして裸足にローファー。。アローズの店員さんにこういうスタイルの人がたくさんいるような気もします。父ちゃんがそういうスタイルってわけではないです。父ちゃんはいつもシャツを着てチノパンを履き、場合に応じてジャケットを着る。スーツは冠婚葬祭以外着ないことにしているらしく、スーツが「きちんとしている」なんて誰が決めたんだ!そんなの単なる決まりごとだ!みんながそれを信じているから成り立っているだけだ!みたいなことを言っていた。とはいえ、みんなが信じている以上、逆らえないわけで、だから冠婚葬祭ではスーツを着るのだろう。いまkugyoさんの「アサッテ問答」http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090212を読んでいる。いまkugyoさんの「アサッテ問答」を読んだ、読んでいた、いまkugyoさんの「アサッテ問答」を読んでいる。これはロブ=グリエ「迷路のなかで」にで手くる、なんなの?この変換?バカじゃねえの、なんで何回やってもこの変換??という怒りでなかなか先へ進まない。で手くる。まただ。。面倒くさいな。ほんとに。再チャレンジ。出てくる。いけた。面倒くさいやつだ。で手くる、なんてあるわけないだろ!分かれよ!と思う。出てくる。なにかが完了する、というのは、便宜的なもので、そもそも完了することなどなく、すべてが並行して続いているということ。kugyoさんの「アサッテ問答」はとてもユニークでした。これを読んだあと、「アサッテの人」に思いを巡らしてみると、「アサッテの人」って、作為についての思考のパフォーマティブ(行為遂行的)な実践(というか小説というかなんというか)なのだろうか、と思えてきて、楽しい。「アサッテの人」については、人の意見を借りてこんなことを書いていた。。http://d.hatena.ne.jp/k11/20070913 でもほんとは徒手空拳がいちばん強い、みたいなことにしたい。いや、どうやろ。基礎体力とかいるのかな。走りこみとか。走るかな。