1、2年前だったか和歌山で鈴木昭男さんの展覧会があった時に
本人と歩く「点音」ツアーのようなものがあって
申し込んでいた東君のグループに欠員が出たということで誘ってもらって参加したのだが
ご本人のお話を聞きながら歩いていて興味深いなあと思ったことに
それぞれの点音プレートが置かれた場所は
必ずしも音という視点から選ばれたものではなくて
そして必ずしも音を聴くものではないということで
どちらかというと「場所」として面白いというようなところが選ばれていてたとえば
最後は川に突き当たる縦に長い道路があってその道に交差するかたちで
細い道がいくつも交わっていてその川に突き当たるところに点音プレートがあって
そこから縦の道を眺めると近くの交差する道や遠くの交差する道の左右から
大小さまざま(遠くか近くかという意味で)の車や自転車や歩行者が行き交うさまを見ることになって
近くの交差する道を通る車の音は大きいし遠くの交差する道を通る自転車の音なんか聞こえない。
「街のエコ−ポイントを探る」という説明にあるように
おそらく鈴木昭男さん本人は最初の段階では音という視点で始められたのだと思うが
それが必ずしも聴くことを必要としないものに変容する可能性を持っていたのは
なにより屋外での行為だったからだと思う。
行為によって何を起こすか、何を起こしたいか、何を起こすつもりか、よりも
行為によって何が起きたか、何が起きてしまったのかに意識がいかないと
世界が変わっていくこともないし自分自身も変わっていくこともないような気がする。
もちろん行為によって起きたことで人間の認識とか社会とかに
どのような影響があったかということではなくて
その一歩手前の単なる出来事として何が起きたか何が起きてしまったかがまず気になる。