いままで現実に自分の身の回りに起きたことについては一切書かないことにしていたが5月の東京行きで見たり聞いたり食べたり嗅いだり触ったりしたことのなるべくすべてを文字にしようと努力しているうちにヒトは自分の身に起こったこと自分という場で起こったことをそれをどんなかたちにしようともその[すべて]は自分の外に出すことはできないつまり他者に伝えることができるのはそのごく一部に過ぎないということを初めて実感してそれはどういうことかというと自分の身に起こったこと自分という場で起こったことの他者に伝えることができるそのごく一部の伝えやすい部分、覚えやすい部分、目印になりやすい部分、絵になりやすい部分、言葉になりやすい部分、意味になりやすい部分だけ覚えておいてやがて外に出す時になればそれを拡大することになってそれが[記憶は美化される]とかそういうことに繋がるのかもしれないがそう思ってくると伝えやすい部分、覚えやすい部分、目印になりやすい部分、絵になりやすい部分、言葉になりやすい部分、意味になりやすい部分以外の伝えにくい部分、覚えにくい部分、目印になりにくい部分、絵になりにくい部分、言葉になりにくい、意味になりにくい部分をなんとか頑張って文字にしていくことで何か変わるんじゃないかということともうひとつ出来事と出来事のあいだにはそれ自体では何の脈絡もなくてヒトがそのあいだに入ることで脈絡が生まれていて見てしまう聞いてしまう食べてしまう嗅いでしまう触ってしまうからヒトという場に強引に脈絡が生まれてしまうということも思っていてこれは西田幾太郎の[場の論理]に繋がるのかもしれないが西田本人の[場の論理]に関する文章をまだ読んでいないのでなんともいえなくてどっちにしてもヒトという場に脈絡の原因があるとかそういうわけでもなくてすべての物事には前後の因果関係があるかもしれないがそれと同じくらいかそれ以上に左右上下の何かもあるだろうということでそういうもろもろが
2007-05-15
2007-05-16
2007-05-28
2007-06-04
2007-06-15
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などに表れていて私が見たり聞いたり食べたり嗅いだり触ったり考えたり思ったりすることはそれがややこしかろうが素朴だろうがなにに関することであれ[いま]の[わたし]というひとつの連続体でありながら常に現在に固定されたものの上に成り立っているものでそれらをバラバラに分類して取り出して独立に思考してしまうと何か見逃してしまうような気がしてといっても過去を思い出すとか何かの事柄について考えるということ自体がすでに独立になされているように見えるが実はそれ以外のことも常に考えてしまっているというか考えてしまう余地は常に残されていてだからというわけではないがこういうやりかたをいまのところ採用している。