ひと月くらい前やったか、朝日新聞の「ニッポン 人・脈・記」というコーナーで認知症のシリーズが何回かやっていて、そのなかでかつて新進気鋭の民俗学者でいまは郷里で介護施設に勤めつつじいさんばあさんから聞き書きをしているという人の話が載っていた。その人は「驚きの介護民俗学」という本を出しているとのことで気になっていて、ちょっと前に手に入れて読んだのだけれど、介護施設において、認知症の症状のあるじいさんばあさんと「話す」・「話を聞く」・「傾聴」といったときに、「この人は自分の話をちゃんと聞いてくれている」と実感してもらうことで安心するというような”効果”が重要視されている反面、その語られた内容が軽視されているという指摘はまったくその通りだと思う。あとやっぱり「傾聴」みたいなとき、じいさんばあさんのなかに「聞いてもらってる」感じってあるんだろうな。話の聞き方にもよるけど。本当に聞きたい話を”驚き”を持って聞いているときと、内容に興味はないがまずは聞いてあげるのが大事なのだと聞いているときでは、どうしても態度に出るだろうし、相手もわかるだろう。文章として”残す”ことを前提とし「教えを受ける」という態度での「聞き書き」だと、往々にしてその場限りとなる「傾聴」とは、話を聞くときの自分と相手の関係性が変わってくるというのもうなずける。それを著者は、(ケアを)与える/与えられるという非対称な関係が対等になる、あるいは逆転するというような言い方をしていた。「聞き書き」によってその人の固有の経験なりなんなりを形のあるものとして残す過程で、相手に対する印象とか思い入れのようなものに厚みが出てくるんだろうな。「ケアされるべき弱者としての○○さん」ではなく、「これこれこういう人生を歩んできてこういうことを考えている○○さん」だと、相手への接し方や関係もずいぶん変わると思われる。そして「聞き書き」の成果としてまとめられた文章(著者はそれを「思い出の記」と名付けている)を通じて、じいさんばあさんとその家族の関係がちょっと変わってくる場合があったというのもいいなと思う。しかしとはいえ、著者の六車さんも最後のあたりに書いているけど、見てるとともかく現場は身体的なケアに忙しく、働く状況によっては、きちんとじいさんばあさんの話を聞くことすら難しい。相手の気持ちが不穏な状態にならないよう、うまくやりすごす会話で精一杯になりそうだ。ここいらへんから先は、ケアに関わって働く環境、ケアというものを取り巻く環境をどうしていけばよいかの話だなあ。