「情報環境論集 東浩紀コレクションS」の「情報自由論」はこのまえ読み終えた。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」にすこしだけ入る。特急のなかで芹沢一也荻上チキ編「日本を変える「知」」を読みはじめて、『I「経済学っぽい考え方」の欠如が日本をダメにする 飯田泰之(経済学)』を読み終え、さっき『II ニッポンの民主主義 吉田徹(政治学)』を読み終えた。いまカラムーチョを食べ始めた。開けたばかりだがなんか若干しけっているような気もする。建築家の藤村龍至さんがなんかの講演会かなんかで言ったことがツイッターで流れてきて、たしかその講演会かなんかに言った人の感想を本人がリツイートしていたような気がするが、ともかく「相手を否定しない方法で自分の立場を言えませんか」というもので、これはもうほんとそうで、私たちはこれが癖になっている。○○が良いのだと言うために「●●ではなく、○○を」とかいう言い方をする。これの利点は、必ずしも○○の良さを言わなくてもいいところで、なぜ○○なのかの理由として「●●ではないから(良いのだよ)」ということになっていて、しかもなぜ●●が良くないかといったとき、○○ではないから(良くない)、というなかなかに空虚な感じ。ちょうどちょっと前からこれが気になっていたので、面白いタイミングで上述のツイートがやってきたのだけれど、本格的に気になりだしたきっかけとしては、だいぶ前にツイッターで「知識ではなく知恵を」みたいなツイートのリツイートが流れてきたからで、おそらくその文脈としては、本による知識だけでなく、実経験による知恵を、みたいなことなのだろうけれど、いや知恵が大事っていうのは正しいんだけれども、知恵が大事だよって言うのになんでいちいち「知識ではなく」が必要なのかが分からない。このふたつが「ではなく」で繋がるような性質のものかどうかはさておき、そもそもどっちも大事だと思うんだけれども、それでもあえてどちらかを否定してどちらかを肯定するのであれば、「●●ではなく、○○を」という言い方で○○を肯定しているように見せて実は●●を否定したいだけ、という風に見えてしまう。もちろんどっちも大事ということを前提にする限りだけれど、どうにも「知識より知恵を」っていうのは知識コンプレックスでしかないように見えるし、また逆に「知恵より知識を」っていうのも知恵コンプレックスでしかないように見える。「●●ではなく○○」論法は、肯定・否定の論拠をちゃんと示すのであればなんも問題ないのだろうけれど、否定する楽しさ、コンプレックスへの復讐みたいな方にいっちゃいがちなので、あまり使わない方が身のためだなと思った。でもほんとこれは癖になってて、○○は良い、って言いたいとして、それをどう言うかというとき、その○○の性質△△と相反するような性質▲▲を持つ●●を持ち出してきて、○○には●●のような▲▲がないから良い、みたいな言い方をしてしまう。で、やってみると分かるのだけれど、おっ、やってみると分かるっていうのは知恵っぽいな。まあやってみて思ったのだけれど、「●●ではなく○○」「●●ではない○○」論法を禁じてみると、どう良いかを言うのがめちゃたいへん。とここまで書いてきて、「●●ではなく○○」「●●ではない○○」論法は、●●か○○という対立に(大した理由なく)落とし込んだ上でどっちはダメでどっちは良い、っていうのがいかんのであって、●●と○○を比較すること自体は悪いことではなくて、●●と○○との比較だけでなく▽▽や■■との比較もあった方がよいだろうけれど、まあ比較すること自体はむしろ必要だと思われる。一気に○○を肯定しようとして、●●対○○の対立を前提として●●ではなく○○って言ってしまうのがまずいんじゃろう。○○がどう良いかっていうのは、他の似たような性質を持つと思われるなにかとどう違うかっていうことと関係あるので、その違いをはっきりさせるために、●●と比較したり▽▽と比較したり、というのは有効だ。ともかく、○○が良い、って言うときに、○○の性質をいろんな方面からなるべくはっきりさせた上で、こういう文脈において○○はこういう面で優れているよ、と言った方がいいのだろう。あとは、「●●ではなく○○」「●●ではない○○」論法を禁じるあまり、○○は何とも比較できないオンリーワンであって、それ自体ですでに良いのだ!っていうのは、結局のところ○○の性質がよく分からんままなので困るけれども、比較なしで性質がはっきりすることがあるのかどうかはちょっと判断しかねる。もし比較なしで対象の性質がはっきりするのであれば、比較しないのもありだと思う。性質やら機能やらをはっきり示していくのは、比較なしでもできるような気はするけれども、その示したことに説得力を持たせたり、分かりやすくしたり、するために、比較を使うっていうことかもしれない。あと、だいぶ前に、4月か、梅香堂での米子君の展示の関連イベントのときにサトウさんに久しぶりにお会いして、リディア・デイビスの短編集のはなしからだったか、それとも逆だったかは思い出せないが、メッセージと共に発信される裏メッセージあるいはメタメッセージというのか、の話になって、私たちはどちらかというとメッセージを字義通りに捉える方で、たとえば、「出て行け!」と言われて出て行ったら本当に出て行けという意味ではなかったりするというのは典型的なケースであるので、参考になるけれども、「出て行け!」というのは「出て行け!」というくらい怒っているんだぞ、という意味なんだよね、でも分かりにくいよね、というような短編がリディア・デイビスの短編集にあるらしい、たしか、サトウさんによると。私もサトウさんもこのようなメタメッセージはちょっと勘弁してほしいということで意見が一致したのだけれど、さらにはなしを進めると、私(たち)はメタメッセージが分からないわけでもなくて、分からないから嫌っていうのとは、別の嫌な感じがあるな。なんだろなと考えてみたところ、なんかずるいのよね。コミュニケーションのやり方として。たとえば、さきほどの「出て行け!」で考えてみるけれども、なんかな、こっちの気持ちを試すようなところがある。しかも、これが重要なのだけれど、怒る/怒られるという非対称な関係の中で。さあ、俺をこんだけ怒らせたお前が悪いんだぞ、どうするんだ?というような。さらに重要なのは、こういう怒り方をすることによって、怒っていること自体の正当性あるいは妥当性はまったく問われなくなる。なぜ怒っているのかは自分で考えろってことになって、一方的に非対称な関係がつくられる。そういうやり口がアンフェアだと思うから嫌なんよね。怒っていることや怒っている理由を明示せずに、メタメッセージとして「俺は怒っているぞ、お前は俺を怒らせたんだぞ」と発することで、被害者/加害者関係にも似た、怒る/怒られる関係を一方的につくってしまえて、かつ一回その関係に組み込んでしまえば、相手がどう出ようと関係の非対称性は崩れず(相手が反論してきたら、逆ギレだ!と再キレすることもできる)、なんならいくらでも気がするまでネチネチいじめることもできる。まあ男女の関係でもよくあるような気がするが、男女どちらかが、まあ男がということにして、ああなんか勘違いでおかみさんを追い出すみたいな落語があったような気がするな。おかみさんが湯屋から帰ってくると、八五郎がなにやら機嫌が悪い。あんた、どうしたの。また喧嘩でもしたのかい、と訊くと、そんなんじゃねえやい、自分の胸によーく聞いてみろってんだ、というような具合。うろおぼえだが。しかも、この後ちゃんと理由を言うんだけれども。