乾久美子「現代建築家コンセプト・シリーズ3 乾久美子−そっと建築をおいてみると」を読了。青木淳さんの事務所で働いていたとのことで、たしかになんだか繋がるものがあるような気がする。青木淳「原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ」もぼちぼち読了しそう。なんとなくCD棚で目についたので、The Dylan Group「Ur-klang Search」を聴いてみる。ものすごく久しぶりな気がする。いちおう売らずにとっておいたのだった。ヴィブラフォンとドラムがメインのバンド。まだ活動しているのか?ぜんぜん名前を聞かないけれども、と思って検索してみたけれど、よく分からない。「Ur-klang Search」以降、アルバムを出している気配はない。マイスペースは3年前のログインで止まっている。夕食は焼きそばとコンソメスープ。野菜がたくさん送られてきた。あとじいちゃんの妹、なんて呼ぶのか、叔母じゃないし、と思って調べてみたら、大叔母、だった。そうか。大叔母さんからメロンがきた。ありがとうございます。ガスの点検の人も来た。点検していった。以下、TATTAKAさんにいただいたコメントへのお返事。長くなるとすこし見にくいのでこちらに書きます。→http://d.hatena.ne.jp/k11/comment?date=20090721#c


いえ、すみません。。なんだかお呼び立てしてしまった感じで。。『今何を感じ、それに対して自分はどうせざるを得ないと感じるか。』が個々に所属するジャンル間や表現様式間の同質性よりも重要なのでは?という意味で、なんとなくTATTAKAさんの試みを連想したのでした。かなり飛躍している連想なので、申し訳ないです。。「クリエイティブ」という次元で簡単に切り結んでしまうのは、私も違和感があります。それ以前の、状況認識というか問題意識もしくはそれらの議論の次元で連結されるのであれば、よいかなあと思いますが、どうでしょうか。 


昨日の日記にも書いたのですが、創作行為というものは、なんだか妙にねじれたかたちでデータベース消費の時代に入っている感じがします。個人的な感情の満足のために創作という消費をしているにもかかわらず、それは同時に純粋な創作でもあり、創作つまり生産であるということは、事後的に他者へのはたらきかけにも「なりうる」という。これは、東さんのいうシミュラークルとデータベースの二層構造としては、かなりあやふやな状態というか、変な感じにふたつの層が繋がってしまっている気がします。東さんは、オタク系文化について、「シミュラークルの水準で生じるドラマへの欲求」に個人的で孤独な欲求−満足のサイクルを、「データベースの水準で生じるシステムへの欲望」に形骸化した社交性を、それぞれ対応させています。私の個人的な解釈なのですが、いまの創作行為というものは、シミュラークルの生成プロセス(創作)によって孤独に欲求のおもむくままドラマを消費し、その生産(欲求−満足)の結果生じる「作品」というシミュラークルによって社交に参加する、という、二層ではあるけれど繋がってもいるような構造をしているのではないかと思います。そして、なにより気になるのは、その「社交」が本来的な意味での社交ではなくて、「自分たちは、これからも、シミュラークルの生成プロセス(創作)を続けていってもいいよね?」と確認しあうだけの場になっている気がすることです。こういう次元では、誰も他人の作品について「好き/嫌い」以上のことは語らないし、そもそも語る術すら持ち合わせていなければ、その責任を負うつもりもないように見えます。東さんによると、オタクたちは、『データベースを介して作られる擬似的な社交に感動や感情移入を期待していない』(情報収集だけが目的?)らしいのですが、私が見る限り、創作行為における「社交」はそうではありません。シミュラークルの水準で孤独に欲求を満たし、その過程で生じる「作品」を持ってデータベースの水準での「社交」に参加し、趣味嗜好の次元での形骸化したコミュニケーションに没入する。おそらく、創作行為を行う人々は、オタクたちのように孤独に自己の欲求を満たすことに馴れておらず、どちらかといえば「かまわれたがり」・「目立ちたがり」の傾向があり、生きる意味を「他者」の承認に求め、かつ「欲求」にも求める、のだと思います。承認ゲームとしての「社交」に、動物的な「シミュラークルの水準で生じるドラマへの欲求」がくっついてきた、という感じかもしれません。半人間・半動物??ひょっとすると、「社交」もまた動物化しつつある、のかもしれませんが。もちろん間主体的な欲望をベースとする「社交」ではあるのですが、趣味嗜好の次元での形骸化したコミュニケーションに限定することで、欲求−満足の閉じた回路がつくられる可能性は、十分にある気がします。あと、重要なのが、創作行為において、良いシミュラークル・悪いシミュラークルの判断基準としてデータベースが機能しているのかどうか、ということです。さきほど書いたように「社交」がその機能を果たしてないかわりに、データベースが果たしているかといったら、どうも怪しい。個々のカテゴリーにおける大文字の「○○」、たとえば美術なり音楽なり、が象徴する、カテゴリーごとの「歴史や枠組」がデータベースの役割を果たすと思うのですが、これは機能しているのでしょうか。情報としては存在しても、ぜんたいとして見ればそのように機能してはいない、というのが現状だと思います。ちょっとまえに、作曲家・編曲家・クラリネット奏者の坂野嘉彦さんのことばを引用しましたが(http://d.hatena.ne.jp/k11/20090625)、アマチュアも含め、誰もが批評・批判されることを望んでいないように見えます。なにをどのようなやりかたでやるかではなくて、やること自体に意味があるからです。だから「まったり」自己表現できればそれでいいし、それ以上のことは求められていない。「自分のやりたいこと」で誰かに(それはもはや歴史や枠組でなくても構いません)認められることしか求められていない。ということは、オタク系文化のように、データベース(に同化した消費者)による「淘汰」があるわけではなくて、というか、生産者がそのまま消費者でもあり、自分にはねかえってくるとまずいので、みんな非常に生産者(=自分)に甘い、つまり「淘汰」がまったくない、という状態です。適度にやる気を刺激するくらいの淘汰圧=擬似競争はあるでしょうが、「淘汰」そのものは求められていません。なので、適度に浮き沈みしつつも、死ぬまで「まったり」自己表現するのが、創作における「データベース的動物」じゃないかなと思います。個人的な心情としては、気持ちはものすごく分かりますし、創作信仰、アート信仰に走るのも分かりますが、それがベストな選択肢なのかどうか、という違和感は残ります。なんにしろ、「社交」をどうするかがわりあい重要な気がします。TATTAKAさんのいわれる「不可視の共同体」という考え方が、このあたりに関係しているのかなと思っていますが、どうでしょうか。


ほんと、どうしたらよいのか、ますます分からないのですが、 「反動的にすら見える身振りが必要」というのは、そうかもしれません。私の身振りも反動的だと思いますし。作家性は否定しますが、作品という概念は否定しませんし。データベース消費の時代で、なにかできることがあるとするならば、データベースにウイルスを仕掛けることで、無数に生み出されるシミュラークル(他人の作品)に、匿名のまま、気付かれないまま、介入し続ける、くらいなのでしょうか。作者の意図を読み取り、データベースとの距離を計った上で、作者の意図の延長線上で勝手に「改良」する、とか。匿名で出版される書物のように「作品」を流通させるのも手かなーと思います。たんなるひとつの思考と実践のための「道具」もしくは、「遊び道具」として。うーむ、昨日のも含めて読み返してみると、自分自身の問題でもあり、いつものこととはいえ、なんだかものすごく極端なひどいことを言っているような気がします。。なんだか偉そうだし。なにか自分にできることを探しているんですが、なかなかむずかしいです。