網戸ごしに外を見ていると、網戸の網は蚊とかの虫が入ってこない程度の粗さなので、なにか解像度の低い映像を見ているような気にもなる。このまえの「テレビをみる日 第2回」でも会った備後君からお知らせが来ていて、ちょうどこの日はうちの母親がやってきていたり、ばあちゃんのデイサービスの見学に行ったり、していると思われるので、行けないのが申し訳ないが、とはいえ奈良っていうのは京都より遠いイメージで、実際うちからは遠いのかもしれないが、金子由布樹君がイベントをやっていたり、奈良はなにかあるらしい。おっ、ティムも出るんだ。

2009.06.27(sat)@sample white room(奈良)


yuki nakagawa & sukima industries present...
『o/t/c scene.8』meets『guild』
http://sukimaind.exblog.jp/


Act:
◇tim olive+daniel fandino(from canada)
◇備後英行
◇豊永亮
◇miku−mari
◇子守翔平
中川裕貴

Fee: 1500yen
Open 17:30 /Start 18:00


会場となる「white room」は奈良市内のビルの一室にあります。
通常の演奏会場と違い、防音設備がないため、ここでは室内と室外の音が分け隔てなく響きわたります。
メロディを奏でるのに少々不便なこの場所で、私はあえて「メロディ」を主題にしたギターソロ・インプロヴィゼーションを行います。
音を奏でることを目的としない行為と、音を奏でるための行為が織りなす音楽をお楽しみください。

インプロヴィゼーションといえば、Annette Krebsのライブが京都・神戸であったようで、すっかり忘れていたわけではないのだけれど、この前みつ君と会ったときにも話題には出たのだけれど、どっちかというと、忘れていたのかもしれない。忘れていたというか、そもそも音楽全般についてをあんまり気にしなくなってきているというか、そういう時期なのだと思う。見たら見たで、ぜったい面白いとは思うのだけれど、気が向かなかったのと、他にも用事があったからか。来日の情報を知ってから、とりあえずAnette Krebs「Various Projects 2003-2005」をひっぱりだしてきて聴いた。探すのにすこし手間取って、売っちゃったかな、と思ったけれど、ちゃんとあった。ひさしぶりに、Ftarri CD ショップ(http://www.ftarri.com/cdshop/)をのぞいてみると、すっごくいっぱいいろいろCDが出ている。川口君と山口君のHelloとか、Phosphor、Andrea Neumann、村山さん江崎さん木下さんのトリオ(去年のKAVC録音)、杉本拓さんと宇波拓さんの「天狗と狐 2」、Radu Malfattiと宇波拓さんの「Goat vs Donkey」、Confrontってまだリリース続けてたんだ、、とか挙げていけばキリがない。さっきまで、スタン・ゲッツのベストアルバムみたいなのをラジカセでかけていて、これも親父からもらってきたやつで、ジャズのCDはぜんぶ親父からもらってきたやつだけれど、そんな親父がジャズファンかといえば別にそうでもなく、もう聴かないからもっていっていいよ、とのことなので、もらってきた。CDクラブとかなんとかいう、月に何枚か定期的にCDが送られてくるサービスを申し込んでいたらしく、それが積もり積もって積もったジャズのCDたち。マイルスとかミンガスとかセシル・テイラーとかリー・モーガンとかコルトレーンとかマックス・ローチとかたぶんわりと有名なひとたちばかり。ああ、そうだ、ゲッツだ。別にゲッツ自体はどうでもよいのだけれど、ジャズだなーと思って聴くくらいで、細かな内容がどうというよりジャズの「イメージ」を聴いているようなところがある、私には。BGMとしてのジャズなんてそのくらいの聴かれ方しかしていないとも思う。はなしがずれた。ゲッツのCDについている解説のはなし。高井信成さんという方の解説。

 もしかすると、テナー・サックス奏者スタン・ゲッツは史上最高のジャズ・アーティストかもしれない。たまにだが、そう思うことがある。こういう言い方をするわけだからこれまでのジャズ評論における評価はそうではない。たとえば、ある人が「ジャズ10傑」を発表したとする。その中にスタン・ゲッツが入っていると、よほどのファンだと思われる。ヘタすりゃベスト20でも同じことを言われるかもしれない。スタン・ゲッツの評価はだいたいそんなポジションだ。だが、そもそもジャズ評論には、ジャズ・スタイルのイノベータ―が優先的に評価されてきたという歴史がある。ジャズの進化に貢献したアーティストたちのことだ。もちろん演奏もいいのだけど、そういう人はカリスマ性や存在感が強いから目立ちやすいのだ。
 それでは、スタン・ゲッツの場合はどうだろうか。ゲッツの果たした役割は、1960年代の前半にボサノヴァを導入したことがあげられるが、どちらかといえば当時はナンパなジャズとみる向きが多かったので、残念ながらジャズ評論におけるポジションが人気ほど高まったわけではなかった。

という導入のあと、筆者にとって、ゲッツが史上最高のジャズ・アーティストかもしれない、のはその天才的なメロディー・センスにおいてだ、と続くのだけれど、そのへんはいまから書くことにあまり関係はない。いま引用した文章から読み取りたいのは、ジャズ評論=ジャズの進化への貢献度というような価値体系=硬派が排除する軟派な(ポピュラーな人気のある?)ジャズ、という「硬派/軟派」という対立。ここからさらに「ジャズ」という特定のカテゴリーをとりのぞくと、あるカテゴリーの進化への貢献度という価値体系=硬派、すなわち前衛の排除する軟派すなわち後衛、というよくある「前衛/後衛」なる対立が出てくる。そしてこの対立の前提にあるのは、あるカテゴリーの進化への貢献度を重視する、といったような、進化・新しさへのひたすらな盲信。そしてこれにもうひとつの要素を絡ませるならば、「改良」という考えに基づいた私的所有の理論。石川忠司衆生の倫理」「3 近代の世知辛さについて」で紹介されているのだれど、とりあえず引用。

 政治経済学者のエレン・メイクシンス・ウッドは、「資本主義の起源」の中で、資本主義を支える基本的な心性・イデオロギーを、十六世紀あたりのイングランドに端を発する「改良」といった考えに求めていて、これは新しい私的所有の理論と密接に結びついている。伝統的な所有概念は、土地なり何なりの財から上がる利益自体にではなく、その利益を共同体の成員へと分配する方に力点がおかれていた。したがってここでは「私的所有」と言っても、当の「私的」財を共同体の成員が使用・利用する権利も折り込み済みなのだ。
<中略>
 一方、新しい所有概念はひたすら財から上がる利潤・利益にこだわって、言葉の現在的意味での私的所有、すなわち共有権を一切認めない排他的所有を主張する。「改良」の理論とは、土地なりなんなりの財をもっともよく「改良」し、その生産性をもっとも高める労苦にたずさわった者こそが当の財の真の所有者である、とする考えだ。

たとえば、「芸術」というものも、私たち人間にとっての共有財だと思うのだけれど、そのような財を『もっともよく「改良」し、その生産性をもっとも高める労苦』にたずさわった者こそが当の財の真の所有者=イノベータ―として「評価」されるというのは、いまやまったく当たり前の感覚として共有されている。「芸術の進化への貢献度」という価値体系・考え方は、「改良」の理論の流れにあるものであり、さらに、共有権を一切認めない排他的所有=著作権を主張する点でもまったく同じ。質→量の変換(観測・測定・判断)に一切の疑いを持たない点でも同じ。また、イノベータ―=財をもっともよく改良した者の成果を盗むことは「パクリ」として、徹底的に断罪される。ジャズ評論に限らず、「芸術の進化への貢献度」という価値体系・考え方を前提にした「前衛/後衛」という単純な二項対立による思考は一方で「改良」の理論にも支えられていて、ひいては、「改良」の理論にもとづいた財の囲い込み=資本主義を支える基本的な心性・イデオロギー、に立脚してもいる、っぽい。もちろん、共有権を一切認めない排他的所有=財の囲い込みがそのまま資本主義を支える基本的な心性・イデオロギーだとは、いまの私にはまだ判断できない。そこまではまだイメージできない。実際そうだとしても、実感として、そこまでだとは思えないというだけだけれど。それに、芸術という共有財を、どのようにしてもっともよく「改良」し、その生産性をもっとも高めるか、というような、いわゆる大きな物語・流れに沿った考え方は、もうあまり残っていない気がする。だいたい、誰が「どの作品が芸術一般をもっとも進化させたか」なんてこと判断するのか。いや、できるのか。いままではムリヤリ誰かがしてきたんだろうけど、これからはそんなこと誰も望んでいないように見えるし、そんな大きな流れとしての「新しさ」レース=「改良」レースが不可能ではないにしろ不毛だというのは、みんな思っていることなのではないか。とはいえ、いわゆる芸術家、アーティストでもいいけれど、もちろん音楽家も含まれる、は自分の作品と誰かの作品が似ていることを極度に嫌がるのだけれど(それはなぜなのだろう。自分の作品がそのまま自分自身だとでも思っているのだろうか?人間同士・作品同士に完全な差異というものがあると思っているのだろうか?)、いや正確にいえば、実際に似ているかどうかではなく、似ていると誰かに「思われる」ことを嫌がるわけで、そういうところに、「改良」の理論がぼんやり見えるし、「似ていると思われるかどうか」だけで、作品をつくるときのもろもろの思考や身体の動き・はたらきや作者・鑑賞者にあたえる影響などを、すべて捨象してしまう思考様式は、どこか狂っているとしか思えない。似ていると思われたら、その作品は無価値なのだ、芸術家にとっては。芸術というのは、なにかをつくるプロセス、およびなにかを感じる(みる・きく、などなど)プロセス(結局はそのふたつは同じだけれど。つくることは経験であり、経験もまたつくることだ)そのもののことであって、「作品」はたんなる触媒でしかない、というふうに私は捉えているのだけれど、どうなのだろう。だいたい、ある経験の「質」を「量」的な比喩・思考で把握・比較しようとすること自体がそもそもの元凶のような気がするのだけれど、これはベルクソンさんがすでに言ってくれていた。ありがとうございます。「ベルクソンさん」とか書くと存命かつはてなダイアリー利用者のように見えるから不思議だ。id:ベルクソンさん。アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」の「はじめに」より。

 われわれは、自分の考えを表現するのに必ず言葉を用いるし、また、大抵は空間のなかで思考する。言い換えるなら、言語は、われわれの抱く諸観念のあいだに、物質的諸対象のあいだに見られるのと同じ鮮明ではっきりした区別、同じ不連続性をうち立てることを要請する。このような同一視は、実践的な生においては有用(utile)であり、大部分の学問においては不可欠である。しかし、ある種の哲学的な問題が引き起こす乗り越えがたい困難は、まったく空間を占めないものを空間のうちに何としても並置しようと固執することに起因するのではないか、また、繰り広げられる論争の中心に置かれているいくつかの粗雑なイメージを捨象することで、そうした論争に終止符を打つことができるのではないか、と考えることもできるだろう。非延長的なものを延長へ、質を量へと不当に翻訳することによって、立てられた問いの核心に矛盾が持ち込まれてしまった以上、その問いに与えられうる答えのうちにも矛盾が見出されたとしても、果たして驚くことがあろうか。

ああ、そういえば、「前衛/後衛」とかいう二項対立で思い出すのは、音楽に、えーと、実験音楽というのに、よくありがちな自己正当化の理屈(ほんとうにもう聞きあきた!このことにはこれ以上もう一切関わりたくない!)のことで、音の快楽とか耳の快楽とかをやたら目の敵にして、それを否定しきって実験を称揚するのだ!そういうのもあっていいじゃないか!というのがあるけど、これもまた音の快楽・耳の快楽と同じで、実験の快楽・進歩への盲信の快楽、に浸りきっている。結局同じことが反転しているだけで、自分のやっていることの根拠のなさに自分で耐え切れず、相反するものを否定することで正当化できた気になって自分をごまかそうとしているだけだ。そもそも誰も実験がダメだとか言っているわけではないし、音の快楽の否定とか、実験の称揚とか、もうほんとそんな問題ではなくて、なにを目指すかだけだ。音の快楽であろうが実験であろうが、音楽という世界に閉じ篭って音楽内でしか通じない言語でごちゃごちゃやったり言ったりするのは、それはそれでぜんぜんオーケーだと思うし、それも「生きる喜び」とかいうのに通じるだろうし、だから、自分がやっていることの言い訳なんて一切する必要はない。もしも言い訳が必要だと思うのであれば、それはあなたが言い訳が必要なことをやってしまっているからだし、なにをやるかではなく、どうやるかだけを考えているからだ。どうやるかでなにをやるかが決まってしまうことに無頓着すぎるからだ。たんにそれだけなんじゃないかしら。。音楽家の木下和重さんはこのへんのバランスが良くて、まず音の快楽/実験、なんていう二項対立とは無縁だ。しかし、どちらもやる。さきになんらかの目指すものがあって、それが要請することとして、便宜的に音の快楽や実験があるだけ。それらはあくまで手段であって目的ではない。だいたい、実験ってなんだよ、という。。何を試しているんだよ。試すために試しているのか??実験音楽っていう音楽ジャンルを演奏する音楽もあるし。もうわけわからんな。。関わらないほうが身のためだな。いや、でもこういうふうにうんざりするのは、音楽を音楽の外からみているから、かもしれない。音楽という狭い世界のなかで、音楽が音楽を生み出し、さらに音楽が音楽を・・・・という連鎖が続いていて、なんかハタからみると、劣化しながら自己増殖しているだけなんじゃ、、と思ってしまうが、なかに入ってしまえば、実験それ自体が目的の音楽っていうのもオーケーだろうし、音楽それ自体が目的の音楽もオーケーなのだろう。でも、音楽それ自体が目的とか言いつつ、実際には自己表現とか自尊心とか承認欲とか気晴らしとか思考のツールであるとかなんとかかんとかの手段にされているように見えるわけで、いっそのこと、芸術は手段・ツールである(しかない)、でいいんじゃないかと思うのだけれど、純粋に芸術を信仰していたり、音楽を信仰していたり、する人からすれば、こういうのは不純な認識なのだろう。柴田元幸訳のハーマン・メルヴィル「書写人バートルビーウォール街の物語」を読み終わる。これはなんというか、コントだな!と思った。「そうしない方が好ましいのです」がひたすら出てくるあたりで笑う。でも、最後のバートルビーの素性についての噂のくだりは余計だった、私には。別に素性なんか知りたくはなくて、バートルビーなる人物が「〜しない方が好ましい」を貫いて、まわりの人間がひたすら翻弄された、というだけでじゅうぶん。いや、でもいま最後のくだりを読み返してみたところ、これがあることで、ずいぶん変わることにも気付いた。法律家の男(主人公)が書写人として雇った男のことを語る、という構成上、後日談があった方が構成は安定するだろうし、バートルビーの死ですぱっと終わってしまうのは、なんというか、悪い意味で文学的すぎる。