■B
2007-08-09の記述について、

何かをつくることで自己と他者を分かつ境界ができると思いこんでいるような
自分をクリエイターなどと称する人間

とのことですが
「何かをつくることで自己と他者を分かつ境界ができると思いこむ」こと
すなわち「思いこむ」ことが可能であることを知っているという意味では
あなたも同じようなものですし
そもそもこれはクリエイターと呼ばれる人々に
限ったことではないのではないでしょうか。


■A
「クリエイター」という曖昧な呼称が気に入らないのでしょうか。
それならば「アーティスト」なんかもかなり曖昧ですが。
何かをつくること自体は自由であり何らおかしいこともなく
不自然なことでもないはずなのですが何をここまで嫌悪しているのでしょう。


■C

クリエイターなる人々は(それで食っているか食っていないかは関係なく)
自分がクリエイトしたことで何が起こったかなんてこれっぽっちも興味が無い

という部分もあまりよく分かりませんが
クリエイターと呼ばれる人々にとってはつくることが全てで
それが自分にとって何なのか考えることをしないと言いたいのでしょうか。
これでもいまひとつよく分かりませんし必ずしもそんなことはないと思いますが。


■A
例えばこういう風に考えてみたらどうでしょう。
どういう音楽を聴いているか、どういう映画が好きか、などの
自分の趣味嗜好がそのまま自分の個性だと短絡的に思ってしまうことを
自分を「クリエイター」と呼ぶ人々の中に見ているのではないでしょうか。
「ロック」と「ジャズ」が好きで、、などと言ってみたところで
それはコミュニケーションのとっかかりとしてまたは基盤として
機能するかもしれませんが、それはその人の存在そのものぜんたいとして
醸し出すような「個性」なるものとは関係がありません。
結局はその人が「どうありたいか」しか知ることができません。
このあたりのことが

単に選択可能な属性としてそれこそひとつのジョブとして「クリエイター」なるものを選んでいるだけで

に表れているとは考えられませんか。


■B
しかしそれは何も「クリエイター」なる人々に限ったことではないのではないですか?
千差万別、人それぞれとして自分の趣味嗜好をあらゆる選択肢から選ぶことは
日常的にあらゆる人がやっていることではありませんか。
洋服を選んで買う、CDを選んで買う、本を選んで買う、髪型を選んで切る、
ジュースを選んで買う、テレビのチャンネルを選んで点ける、などの選択行為は
生きていく上で絶対に必要なことだと言えないでしょうか。
そしてそれらは全てなんらかの消費活動と結びついています。
結局はその人が「どうありたいか」こそが個性なのではないでしょうか。


■C
しかしまたそうなるとその「どうありたいか」をどう選ぶかが問題になってきます。
千差万別、人それぞれの自分の趣味嗜好によって表される「どうありたいか」は
一体どのような基準に沿って選ばれるのでしょうか。


■A
いまふと思ったんですが、そういう風に遡ろう遡ろうとすること自体が
そういう堂々巡りを引き起こすのではないでしょうか。
「選ぶ」ことを外から眺める限り、そうなってしまいますが
「選ぶ」ことの本質はなにかを現実に「選ぶ」ことそのものにしか無いのではないでしょうか。
なにかを選ぶことがなければ、その選択をあとから反省することもありません。
なにかを選ぶことなしに、その選択の反省を先取りすることは可能なのでしょうか。
「選ぶ」ことから『なにかを現実に選ぶこと』を切り離して考えることに
堂々巡り以上の意味が生じ得るのでしょうか。


■B
選ぶことそのものと選ばれたことと選ぶ主体とのあいだに
どのような関係があるのか、またはないのか、
それを堂々巡りに陥らずに考えるにはどうしたらよいのか
まだ私たちには掴めていません。