それはそうと、六甲のブックファーストガブリエル・タルド「社会法則/モナド論と社会学」というのが出ているのを発見して、タルドはいつか読んでみたい。姉ちゃんが予約しておいたケンタッキーのチキンやらを19時に取りに行くと、ケンタッキーには人がたくさんいて、予約専用入り口なるものが開設されていた。予約者はそこから入り、予約カードというかレシートだけど、を提示し名前を言って、スチール棚に並べられたチキンたちのなかからマイチキンを受け取ることになっている。非予約者は外まで並ぶ。「「おせっかいな人」の孤独」も面白かったし、ほんとそう思うので、同意を示したい!という気持ちをここは抑えて、内田樹さんのブログの「福翁の「はげしい」勉強法」(http://blog.tatsuru.com/2008/12/25_1019.php)が面白かったと書こう。カブックのIさんに「小田さんは何者なんですか?」と問われたことがあるけれど、何者なのかはさておき、そのIさんが居酒屋で私を「書生」だと言っていて、まさにそうだなあと。福沢諭吉さん(さん付けすると存命中みたい)みたいに勉強しているわけではないけれど、どっちかといえば「書生」かもしれない。「福翁の「はげしい」勉強法」で引用されている福沢諭吉の文章では、書生たちはキャリアのためでもなく、つまり特に具体的で実践的な目的もなく、強いていえば「智力思想の活発高尚なること」を求めやみくもに勉強している、というふうな感じに言われている。どっちかといえば、私もこれに近くて、私の読書は別に直接になにかの役に立つわけじゃない。自分の創作に役立つわけでもない。経済学に関する本を読むことと、「4つ打ち」と称してコンピュータの内臓マイクを親指で叩いて擦った録音を発表することのあいだにはいかなる関係もない。強いていうなら、自分の気になることや納得のいかないことに導かれるように本を読んでいて、とはいえ考えごとのために読んでいるかというとそうでもなくて、読むこと自体も目的なわけで、というか、読むということは考えることでもある。ほいで、なんで前回の日記のようなことをいつもいつも書くのかといえば、自分のためでしかなくて、自分の言葉はまず自分に影響を与える。そしてもうひとつは、作者と芸術作品と受容者の関係というものをいわゆる「作品」のなかで問題にするのはちょっと無理っぽくて、自己言及のパラドクスというか、それよりも、芸術受容の一般論みたいなのを個別の「作品」ですることはそもそも不可能だ、ということかもしれない。あ、でも、個別のケースの受容関係を問題にする作品はアリだなあ。ときたまやる、「シムシティクラシック・ライブ」(http://www.japan.ea.com/simcity4/sim_classic/)で、いま2143年の12月で人口は13万9080人で、街をつくるとき、まず発電所をつくって、それから工業地帯や住宅地帯や商業地帯をつくり、発電所から電気を送ってそれらみっつを道路で繋ぐと活動が始まるのだけれど、シム人たちは住宅地に住み工業地や商業地で働く、というのはいいけど、工業地でつくられたものはいったいどこに出荷されているのだろう。というか、なんにもない土地でいきなり「工業」(近代?)を始める、という不思議。昨日、寝る前に柏木博「20世紀はどのようにデザインされたか」の「3、日本の20世紀」の「西洋化の中の日本住宅」を読み終わったので、次は同じ章のなかの「日本のアーツ・アンド・クラフツ運動―日本民芸館」。柏木博「20世紀はどのようにデザインされたか」の「西洋化の中の日本住宅」より

明治以降、わたしたちは、公私の切り分けをデザインの洋の東西で行うことになった。こうした習慣は、住空間だけでなく、衣服にまで及んでおり、公的な場所では背広、家に帰れば和服という習慣に見ることができる。近代の社会はいたるところで、パブリックなものとプライベートなものとの分離を推し進めたわけだが、日本の場合、その分離を洋の東西と重ね合わせたところに特徴があるといえるだろう。

そういえば、うちのじいちゃんは公の場所では背広、家では和服だった。ふんどしだったし。ん、背広のときもふんどしだったのか?正月にはお座敷に集まりおせちを食べる。火鉢の匂いがする。火鉢のなかの炭の燃える匂いが私にとっての正月の匂い。毎年じいちゃんは年末に、家の周りの山の斜面から切ってきた木の枝やなんかを使って炭をつくっていた。お風呂に入るときは必ず身体を洗ってから湯船に入りなさいと教えられ、ご飯粒を残さないように食べなさいと教えられた。帰宅のときは必ず玄関から入って、靴を揃えて上がりなさいと教えられた。じいちゃんから怒られたのはたぶん一回だけで、前日に父ちゃんがつくったトマトのパスタの残ったのを次の日に食べるとき、あまりに薄味で美味しくなかったので、ブーブー文句を言いつづけていたら、文句を言わずに食べなさいと怒られた。ご飯は楽しく食べないといけない、と常に言っていた。あと、ご飯のときはテレビを消しなさいとも言っていた。たぶん、テレビを点けていると、みんなそれぞれテレビと一緒に(一対一で)ご飯を食べてしまうからで、つまりみんなが他のみんなの存在を忘れてしまうから、だと思う。でも、それもあまり守られることはなくて、妥協案として、民放はやめなさい、とも言っていた。そういえば、テレビを見ている妹に話し掛けても反応がないことが多くて、ほんとに聞こえていないらしく、よくそこまでテレビに集中できるな、と思うし、というか、近くに人がいるのに、テレビ(に限らないけど)だけに集中して他を忘れる、っていうのが、すごい。