安治川倉庫FLOATオープニングパーティー
日時:2008年8月31日(日)
場所:安治川倉庫 FLOAT(大阪市西区安治川2丁目1-28)
http://float.chochopin.net
時間:18:00開場 19:00開演
出演:
大和川レコード / 金木義男 / 山本握微 / 小田寛一郎+米子匡司  
料理:辻並麻由  
料金:入場無料

8月31日は、昼くらいに起きて住吉に行って、待ち人を待つあいだ、住吉のトイザらスに行ってみるとわりと面白く、なわとびとコマと単三電池で動くモーターみたいなのが入っていてモゴモゴとランダムに動き回るボールみたいなのを買って、店内のボール売り場みたいなところになぜかうんちが落ちていて、たぶん大きさ的に子供かペットのものだろうけれど、ここはトイザらスなので子供だろう。あんまり臭いはしなかったが、みんな見てみぬふりなのか日常茶飯事なのか。中村晃大さんの個展をみて、みながらカレーを食べたのか、カレーを食べながらみたのか。「肉」感がよいです。と芳名帳に記入。妙な生き物の肉のよじれ。帰りにまたトイザらスに寄って、ケンダマとヨーヨーを買う。16時くらいにいったんうちに戻って、さっき買ったもろもろと風船と空気入れをゴロゴロに詰めてFLOATへ阪神電車で。道中ずっと考え事をしていて、もちろん今日はどうしようかなーということで、風船だけにすることにする。いろいろ買ったけど。そして、同じことは二度とやらない、という自分ルールを平気で破る。知るかそんなもの。この調子で書いていくとこれまたいつものごとく長くなるのでどわーっと割愛して、19時からちょっと押して始まって、よなさんの挨拶から始まり、ああそのまえにお客さんはかなり来ていた。30人、40人くらいいたかしら。よなさんの挨拶のあと、レシート展出品者の松本渉さんが連れてきたという、金木義男さんというおじいさんのおはなしというか主張が始まる。私は知らなかったけれど、日本橋にてリヤカーの本屋で「宇宙人のツッコミ」という自著を販売しているらしい。→http://uchujinnotukkomi.seesaa.net/ おはなしは、「人間の外」のはなし。だから「宇宙人のツッコミ」なわけね。

人間はなんでも天秤にかけて、常に自分の方が重い。(原理的に利己的ということか?)でも僕は「自分」すなわち「人間」の視点から出ることで、全ての天秤がつりあう、つまり差別や優劣のない、視点に立つことができるのではないかと思った。そのことには50年前に気付いたけれど、会得するまでにいままでかかった。

というのが、はなしを聞いたかぎりでのおおまかな主張のようで、これはものすごく分かるし、そういう視点が欲しいのも分かるが、ものすごく微妙なところではある。「差(異)」がないということは、(相対的?)価値もないということで、すべてに価値を見出すということはすべてに価値を見出さないということでもある。また、「外」が「上」になってしまわないとも限らないし、そもそも「人間の外」に出てしまうと「人間の内」でやることがなくなるのではないか。というより、「人間の外」である「人間」(らしきもの)とは神のことではないのか。とかいろいろ言い出すとややこしいし私の手に負えなくなるので、このへんにしときたいけれども、私もそういうことは考えるので、多いに参考になりました。休憩を挟んで私たちの出番だけれど、最初は「ひかがみ」という朗読バンドをやろうとしていて、諸々の事情とやっぱり違うかもなあという私の気持ちでとりやめになったのだけれど、29日によなさんとこに行ったときにいろいろ話して、ふたりでなにかやることにする。このときは「お客さんに目を閉じてもらう」ことで、可能になることをやろうという方向で、というところまで9月くらいに書いていていま(2008年12月26日)まで放置していたので、なんとか書き継ぐ。オープニングパーティー前日に「お客さんに目を閉じてもらう」ことで、可能になることをやろうという方向でいろいろ考えていて、そのときはカップラーメンを食べるとか、肉を焼くとか、どっちかというと目をつぶっていても「分かる」ことを考えていて、とはいえ決定的なアイデアも出ないので、各自明日までに考える、ことにして、特に厳密になにかやることを決めることなく本番へ。10分と5分どっちがいい?と直前によなさんに訊いてみると5分とのことなので、5分間のパフォーマンス。よなさんはギターを取り出してきている。マイクを通してお客さんに、いまからパフォーマンスをするのだが5分間だけ目をつぶっていて欲しい。時間は私が計る。それじゃせーので目をつぶってくれ。との旨を伝える。せーのと同時に携帯電話のタイマー機能で5分間を計り始める。それからゴロゴロを開け風船と空気入れを取り出し、風船にシュッシュッシュッシュッと空気を入れ、風船の口を押さえている手を離しブロロローと飛ばす。これをひたすらお客さんのあいだを歩き回りながら繰り返す。5分経過を待たずにぜんぶの風船を飛ばし終えたので、落ちているのを拾って飛ばす。私がやったことを文字で表すと以上。よなさんは最初ギターをポロンポロンと弾いていて、最後らへんでドラえもん(黄色いやつ、つまりねずみに耳をかじられる前の)の手動でガリガリ回すかき氷機で氷をガリガリやっていて、5分経ったちょうどくらいにかき氷が完成し、お客さんが目を開けたときには食べていた。パフォーマンス終了後、意外にもいろいろな人から面白かったとの感想をいただく。大谷君は風船のブロロロっていう音が犬の声に聞こえて、犬を放したのか!と思ったらしいし、他のお客さんはどこに飛んでいくか分からない風船の動きが怖かった(見てたのかしら?)、とか、目を開けたら誰もいない(というパフォーマンス?)んじゃないか、とか、それぞれに楽しんでいただけた模様。やっている方としては、風船が飛んでいくのがなんで面白いのかは分からない。私は飛ばす側なので面白さは残念ながらとくに感じられない。でもやるんだけど。休憩のあと、山本握微さんのおはなしというかパフォーマンス。紙芝居をしようとしたが紙芝居道具(のはいったカバン)が壊れたので、FLOATの成り立ちについて、あれなんて言ってたかな、なんかバナナのたたき売りみたいな感じか、噛まずに速いテンポで流れるように語る。宇宙レベルのはなしからFLOATのはなしにぐわっとスケールが変化してくる。なぜかスーツ姿である。日曜だったのだが、休日出勤だったのか、土日休みの会社じゃないのか、演出なのか。なんというか、さすがに(演劇関係の人だけあって?)人前に出ることに慣れている。「芸」の人だ。山本さんのあと、休憩をはさんで、最後の大和川レコードことアサダ君のパフォーマンス。そういえば、アサダ君は他の人のパフォーマンス中や休憩中にビデオカメラで撮影していて、いまカメラがとらえている映像を背中に背負った液晶モニターに映しながらうろうろしていた。これはちょっと面白い。始まって5分くらいか、ずっとドラムソロ。さすがにうまい。あとで聞いたところによると、アサダ君がドラムを叩き始めると、FLOATの川を挟んで向いに立っているマンションのベランダに次々と人が現れたらしい。でも警察は来なかったので、興味を持って見てくれていたのかもしれない。そのあと、MTR(やったかな、とにかくアナログの編集できる機材)とギターの弾き語り。どこかの野外で録音された女性の歌声とデュエットするのがなんか変で面白い。アサダ君らしく、たんなる弾き語りではなく、そういうスパイスもある、けれども単純にまずポップソングとして完成度が高いのがすごいというか面白い。これは終演後、松本渉さんが言っていたことの受け売り。アサダ君としてはなによりまず曲ありきらしく、でも興味もいろいろ拡散している、という感じなのか。様々な要素が絡み合う複合的なパフォーマンスという側面と、ポップソングの弾き語りという側面のバランスが変。もちろんいい意味で。8月のことだし、なんかもうかなり忘れちゃっているので、このくらいが限界か。次はレシート展。

「レシート展」
各出展者に100円の制作費をお渡ししてなんらかの作品の制作を依頼し、
それぞれの制作費100円の使途となったレシートを展示する、レシートの展覧会。
2008年8月31日(日)〜9月7日(日) 場所:FLOAT
時間:18:00 - 22:00 料金:入場無料
出展:
小田寛一郎 / 境隼人 / シヲネハルカ / 田口友哉 / 中橋健 / 松本渉 /
美馬さあこ / 山口禮子 / 山本握微 / ヤマモトキンゴ

ひじょうに地味だけれど、思った以上にじわじわくるというか、レシートといういわば残り滓というか痕跡のようなものに、100円の買い物を通した各出展者の動きというか傾向というか、そういうのが見えて面白い。意外にレシートだけじゃなにを買ったか分からない。金額だけとか。展示場所は1階と中2階と2階。それぞれ3、3、4ずつ。1階にはアサダ君によるごあいさつ文もある。みんなそれぞれになにかを100円で買ってそのレシートを展示しているのだけれど(その買ったもので、依頼された「作品の制作」をしたかどうかはもちろん不明)、中橋健さんのレシートが変で、3つくらいのレシートと共に買ったもののラベルみたいなのが展示されている。そして、ぴったり100円のものはなかなか見つからなかった、というようなコメントがキャプションとは別に壁に貼られている。あ、そういえば山本握微さんのレシートは100円で古本を買ったときのものでそれでなんか作品を作ろうかと思う、というようなことが自作のキャプションに書いてあった。私はぐっさんこと田口友哉との共作なので、なぜなら、大和川レコード×米子匡司パフォーマンス(http://d.hatena.ne.jp/k11/20080729)のときにふたり連名でアンケートを書いたから。そして、そのときのキャプション。

田口友哉・小田寛一郎

今回、レシートを送る費用、つまり切手と封筒代を合計100円にして、そのレシートを100円で送ろうかとふたりで考えて、郵便局のおばちゃんに、発送にかかる費用が合計100円になる組合せはないですか?と相談してみたところ、そんな都合の良い組合せはなくて、60円切手付きで封筒と便箋が合体しているようなものが60円で売っていて、これに20円切手2枚入れたらいいじゃない、と言われたのですが、それもちょっと違うので、結局は100円切手を1枚買って、うちにある封筒に貼り、それに100円切手を買ったというレシートを入れて送ることにしました。本来ならば、80円で届くのですが、郵便局としては多い分には問題ないとのことです。

展示されているのは、この文章と100円切手のレシート。レシート(100円切手の)を送るために100円切手を買った、ので、このレシートは100円で買った「なにか」の痕跡ではなく、レシートが「ここ(FLOAT)」にある根拠、つまり100円切手(100円)を使ってレシート(100円切手の)を送ったという証拠であって、どちらかといえば、100円でなにかを買ってそのレシートをFLOATに送り、一方で作品も制作した、というより、レシート展に参加する費用(ここではレシートを送る費用)に100円を充てた、ということになる。そういう意味で制作費ともいえる。というちょっとややこしい思惑を、私と郵便局のおばちゃんとのやり取りは、超えていく。今日の日経新聞(妹がとっている。けれどときどき読むくらい、っぽい)の夕刊じゃない方はなんと呼ぶのだろう。ああ、朝刊だ。の「経済教室」っていうコーナー(?)に山口一男さんという専門は社会統計学シカゴ大学教授による記事があって、「『滅私奉公』的働き方改めよ」と大きく見出しがあったので、読んでみた。記事は、終業時間の実際と希望のミスマッチ(意に反した残業)などをデータで示していて、最後は

労働市場でのワークシェアリングを促進できる雇用制度改革とともに、滅私奉公的働き方に対して報酬を与える賃金制度を見直し、個人の時間当たりの生産性と付加価値の創出に報酬を払うようにすることが欠かせない。

と締めくくられている。企業と雇用契約を結ぶ際に、さまざまなものの交換がある、ということはうすうす感じていたけれど、それがちょっとはっきりしてよかった。「滅私奉公」できないのであれば、非正規雇用・低賃金、というのは確かにある。けれども実のところ、「滅私奉公」のメリットは正規雇用(という安定)と高賃金だけではなくて、大雑把にいえば、仕事を自分の居場所にできる(同僚や上司と協力して仕事をしていく)、というメリットがまずある。そしてそれをデメリットだと思う人は「滅私奉公」できないために、非正規雇用・低賃金に甘んじるしかない。ようになっている気がする、いまの企業、ないしは「働く」っていうことのほとんどは。とはいえ、私はさきのメリット(しかし多少倒錯してはいる、このメリットは)のことも知っているから「滅私奉公」がいちがいに悪いとは思えない。「自分の時間(自分が自分でいられる時間)」が「会社にいる時間(仕事している時間)」である、という人もいるだろう。だから、こういう人たちは大丈夫で、そうでない人たちについてどう考えるかが問題。でも、「個人の時間当たりの生産性と付加価値の創出」が問われるようになったとき(だんだんそうなっていると思うけど)、「私」を「滅」したくない(できない)から「滅私奉公」ができない人たちは、はたして救われるのだろうか。びみょうなところだ。そういう人たちは単に労働時間という量的拘束だけを問題にしているわけではなくて、質的拘束、というか、特殊な技能の修得を必要としたり、創造性を要求されるような労働に「滅私」することを問題にしているのであって、そういった人たちは結局どんどんこぼれ落ちていってしまう。まあ、でも「働き方」だけでなく、仕事において「私」を「滅」したくない(できない)人、にも問題がある。たとえば、時間的・量的な拘束を緩くしたければ、時間当たりの生産性と創造性を高めるしかないし、逆に質的な拘束を緩くしたければ非正規雇用・低賃金・手に職もつかない、などなど様々な悪条件を飲むしかないのだけれど、そもそもこういう二択が思い浮かぶこと自体がちょっとまずいのではないか。この二択に悩んだり逃れたりする術を考えるより、なぜ労働に「私」を投じることができないのか、を考えるべきではないか(まず私自身が)。内田樹さんは「創造的労働者の悲哀」(http://blog.tatsuru.com/2006/12/19_1116.php)というブログのエントリでコジェーブのことばによるヘーゲルの考え方を引用したあとで

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定される。
能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見されるのである。

と書いているけれど、たぶん、具体的なイメージを持って「なにかに成るべく」労働するから挫折するのだし、そうでなければ、最初から労働によって「なにかに成」ったり、成長したりすることを諦めてしまうから、労働から遠ざかっていく。そして「芸術」・「表現」に辿り着いたりする。しかし「芸術」は「労働」と違い、自分を自由に表現できる場かというとぜんぜんそうではなくて、「芸術」も「労働」と同じく、主観的に願うこととは無関係に「なにを為したか」によって事後的に決定される。「自分の思うこと」は自分を超えないが、「自分の為したこと」は自分を超える。「自分のやりたいこと」なんてなくて「自分のやってしまったこと」しかない。「やってしまったこと」が「自分」らしいかどうかなんて「やってしまった」あとにはぜんぜん関係ない。受け入れるしかない。そもそも自分の思う「自分」らしさなんてこれほど疑わしいものはない。「自分らしさ」なんてなくて単に出来事の場としての、変化の場としての、「自分」しかない。おそらく問題は、「なりたい自分になる」とか「自分のやりたいこと」とか、そういうのを持つべきだ、それに従って自己を実現していくべきだ、という考え方、というか、風潮がおかしいのではないか。「労働」にしろ「芸術」にしろ。