昨日は三宮に行く電車のなかでなんか見たことのあるギャルだと思ったら、駅にあるコンビニのバイトさんで、電車のなかで電話をしていてなにやら揉めているらしく、ついでになにやら電波も悪いらしく、へ?!なに!?返事してるって!電波悪いだけやん!とか言っていて、そのあと電話が切れる。そしてまた電話を掛けていてさっきの相手ではないらしく、マジむかつく、マジハァ?!って感じ、lasdkufhalsiuydfhluzerkghlavfaliudfhaleyglakjdfnvkjdsr、お姉ちゃんもおろしたん?というような意味不明な早口のことばを言っていてものすごく早口だな、英語みたいだな、お、でも日本語だ、と思っていたのだけれど、よくよく聞くとなぜか英語と日本語が混在していて、英語の発音がものすごくよいが、どうみても日本人のよく日焼けしたギャルで、面白い人がいるもんだと思う。そしてさっきは、コンビニの袋を右手に、携帯を左手に持ち、大声で誰かと電話しながら歩いている袈裟の坊さんを見た。マルティン・ハイデッガー「芸術作品の根源」が平凡社ライブラリーで出ていて、稲葉振一郎「経済学という教養 増補」がちくま文庫で出ていて、稲葉振一郎「経済学という教養 増補」は買ってみて、第一章を読み終えて第二章に入るところ。「第一章 こういう人は、この本を読んで下さい」より

で、もう少し踏み込んで言うなら、ぼくが期待している読者はたとえば例のソーカル事件、そして「サイエンス・ウォーズ」でかなり不安になった人、「ポストモダン知識人の書き物のあらかたはファッショナブル・ナンセンスだ」と告発したアラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店)を読んで「ポストモダン本がわからないのは、どうやらこっちの頭が悪いからというだけじゃなかったらしい」と少しホッとすると同時に、「それじゃ、人文系の知にはどんな意味があるってんだ?」と悩んだ人たちだ。正直言って「あんなのは反哲学、反人文主義の科学者の陰謀だ!」と無視する盲目的ポストモダン信者が、問題外だ。だからといって素直に「そうか、ポストモダンは間違っていたのか!」と安心してそのまま「改宗」しちゃうような人も少し困る。そこには「じゃあなぜ自分はそんなナンセンスに心惹かれたのか」という反省が欠けているからだ。

というここでの引用部分だけ読むと、すこしポストモダン寄りなのかとも思えるけど、そうでもなくて、自然科学にべったりでもポストモダン(というか人文系の知?)にべったりでもないようで、この一節のあとには、ポストモダンが自然科学に対して一種のコンプレックスを抱えているのでは、というはなしになって、なんというか、要は、食わず嫌いは良くない、ということなのかもしれない、この第一章は。ほいで、ポストモダンがどうとかすこしだけかじってみても分かるのだけれど、自然科学の側だけでなく、なんとなく一般の人々の側からも、ポストモダン(=フランス現代思想のこと?)とやらは風当たりが強いらしく、ポストモダンがファッショナブルだった時を知らない私にはそのへんの事情が正直よく分からないというか(もちろん、身に付けたい、カッコつけたいという欲望の対象にならないものなんてないだろうし、コレクションしたいという欲望の対象にならないものもないだろうけれど)、なにをそこまで毛嫌いしたり目の敵にしているのかが分からない。中身を吟味したうえで、ダメだ!と言っているのならいいんだろうけど、過去の流行り物だからダメに決まってる!という感じに見えなくもない。とはいえ、わけのわからないことを言いやがって!頭良さげなことを言えばいいってもんじゃないぞ!というのはよく分かる。けれども、それが、わけがわからなくてなんだか頭良さげなものに対する憧れの裏返しではないと言い切れなさそうでもある。。いや、実際わけがわからなかったりするけれど、「わからない」からすごいのでも、ダメなのでもなく、それはそれとして置いといて、要るところだけ使ったらいいと思うし、勝手に解読してもいいんだろうし、そもそも勝手な解読を許さないのであれば、もっと明晰にしろ!と言えばいいんだろうし。そもそも「わからない」のは、文体のせいでも、内容のせいでも、相手のせいでも、自分のせいでもなく、出会いのタイミングが悪かった、というか、縁がなかった、というか、問題意識の共有ができていないだけ、だと思う。そういえば「わかる」についてとても面白い記事があって、棚橋弘季さんの「DESIGN IT! w/LOVE」(http://gitanez.seesaa.net)の2008年07月25日『本を読んだり、他人の話を聞いただけで、何をわかろうというのですか?』(http://gitanez.seesaa.net/article/103529616.html)

んー、与えられた情報を理解できるようになることを「わかる」ことだと思っていないでしょうか?


それって単に理解力の問題で、理解のための語彙が不足していたり、語彙習得のための勉強が不足していたり、あるいは、理解のために書かれた内容を構造的にそこで何が問題とされ、何が解決案として提示されているかを読み解く力が不足しているかという読解力の問題か、と。


でもね、たとえ、それができたとしても、わかったことにはならないと思うんです。それは書かれた内容を理解できただけで、別にそれって本を読めた、相手の話が理解できたということ以上のなにものでもないですよね。それはあなたがわかろうとした何かの問題の解決になっているのでしょうか?


自分でわからないなりにもやってみて、それでうまくいかなかったらその理由を考える。考えるなかですこしずつ何かがわかってきて、それを試しにやってみるとまた何か発見がある。そういう具体的な行動もせずに、ただ、本や他人の話だけで何かをわかろうなんて虫が良すぎますよね。

というところなんてほうほうと頷くばかりなのだけれど、そのあとがもっと面白いので、ぜひとも読んでみてほしくて、ちょっと書いちゃうと、「わかる」なんてなくて「かわる」ことしかないのですよ!