夏といえばレゲエですよね。夏は野外フェスもたくさんありますしね。とラジオのエアジョッキー(と最近では呼ぶらしい)のお姉さんが言っていて、そういえば私はレゲエを聴かない。別に聴かない理由もないのだけれど聴く理由もない。なら聴いてもよさそうなもの。7月22日は17:20発の佐賀空港伊丹空港行の飛行機に乗り、機内では携帯電話の電源を切っているために時刻は分からないが(腕時計は持っていないし)、離陸して40分くらいたったあたりで窓から下を見てみると、大きな陸地と小さな陸地が橋で繋がっていて、その小さな陸地とさらに大きな陸地が橋で繋がっていて、お、これは四国と淡路島と本州だな、と思っていたらぜんぜん違っていて、そもそもイメージしている縮尺が間違っていて、飛行機が飛ぶくらいの高度からみたとしても淡路島はあんなに小さくなくて、というのが分かったのは、四国の太平洋側を廻り込むように飛んできた飛行機から左を見たときに、和歌山らしき陸地に大きな埋立地が繋がっているのを見つけたからで、といっても「和歌山らしき」と分かったのも、このへんで大きな埋立地が繋がっている陸地なら和歌山のあたりだし、和歌山のあたり(厳密には大阪だけど)に繋がっている大きな埋立地といえば関西国際空港しかないわけで、四国の太平洋側を回りこみぐぐっと左に旋回したボンバルディアのプロペラ機は和歌山の上を通り過ぎ、奈良のあたりで早くも着陸態勢とのこと。大阪城を過ぎ、淀川を過ぎ、だんだん高度が下がり、なんかでかいミドリ電化があるなあと思っていたら、阪急宝塚線の準急で蛍池から十三(で阪急神戸線の特急に乗り換え、西宮北口で普通に乗り換え六甲)に向かっているあいだ進行方向むかって右のドアの右側に立っていたら三国のあたりで同じミドリ電化をみた。正確には、ミドリ電化をみたあとに通過した駅の表示をみたら三国だった。六甲に着いて姉ちゃんは外でご飯を食べているらしく妹からは返事がないのでしょうがなく六甲に着く直前の阪急神戸線普通の車内から見えたケンタッキーの店の前の看板というかビニールの垂れ幕みたいなのに書いてあった、史上最辛!ホットキチンなんちゃらサンド!のセットを頼み、ドリンクはジンジャーエールで、あ、あとコールスローのSをお願いします、と言ったときの頭のなかの計算としては、ホットキチンなんちゃらサンドセット660円+コールスローS160円=820円で、申し訳ございません、ただいまコールスローのSが売り切れておりまして、こちらのMサイズ(220円)ならございますが?と言われたとき、とっさに思ったのは、660円のサンドセットに追加で払う金額が、160円から220円に上がってしまう!ということで、つい断りそうになったのだけれど、ここはぐっと踏みとどまって、じゃあMでお願いします、と注文した。自分のなんとなくに逆らってみるのもひとつの手で、このことで分かったのは、ホットキチンなんちゃらサンドセット660円+コールスローS160円=820円を頼んだあとに、コールスローSが品切れのためその組合せは不可能であることが分かり、代わりの選択肢である、ホットキチンなんちゃらサンドセットのみ660円と、ホットキチンなんちゃらサンドセット660円+コールスローM220円=880円が与えられたときに、私は最初に注文した(支払いの気持ちを固めた)合計820円を忘れて、660円か880円か、というふうに考えている、ということ。つまり、参照点が660円になっていて、そこからの現状維持か追加出費か、ということになっている。しかし最初に注文した合計820円に比べると880円は60円上がっているだけで、参照点を最初の注文合計820円に置くと、880円はそう高くなった気はしない。しかしふつうは、不可能であることが判明した時点で、最初の注文合計820円という参照点は消去され、820円払おうという決意はいったん白紙にされる。なぜだか。6月7日の15時くらいにパンタロンから中津の駅あたりまでひとを送った帰りに、駅から直進して突き当たりの道路を右折しほんの少し行ったところにある古本喫茶伽羅というところで、書くまではこの古本喫茶の名前を思い出せなくて、古本と書いて、ああそういえば奥に喫茶スペースもあって、古本喫茶って書いてあったなと思い、古本喫茶と書いた時点でふるほんきっさという響きにくっついてくる感じで伽羅という店名が出てきて、そこで、岩波文庫キルケゴール「不安の概念」、ちくま学芸文庫フロイト「自我論集」、カバーのフォーマットが新しくなる前の河出文庫マックス・エルンスト「百頭女」、が気になったけれど、せっかくの出会いなので、マックス・エルンスト「百頭女」を買うことにして、レジのお兄さんのところに持っていき600円払って、袋は要りません。吉村光弘さんの日記を読んでいたら、ブランデーで梅酒を、とか、梅ジャムを、とかあって、ブランデーで梅酒はすごくよい気がして、梅酒をつけるのもいいかもしれないし、「三太」が10号で休刊した、というのをいまごろ知るけれども、休刊したからといって、「三太」という行為や痕跡が消えるわけじゃないので、と思いつつ、「三太」の第一号が出た2006年の2月の自分の日記を見てみたりした。さっき。たぶんこの頃から「本」というものを読み出していて、もちろん小さい頃から読んではいるけれど偏っていて、いまも偏ってはいるけれど、この頃から哲学や思想の本を読みだしていて、それからは、いままで自分のことばで考えていた(と思っていた)ことに混じっている他人のことばについて考えたり、自分のことばを他人のことばとして考え直したり、することも始まる。さいきん目が痒くて、また鼻がつまったりもして、草系の花粉かもしれない。アイボンをするとけっこうすっきりする。21時くらいにどうしても眠くなりテレビに堤真一さんが出ているのだけは確認したが、部屋に上がって寝てしまった。なんとなく20世紀少年の映画版のケンヂ役は唐沢寿明さんよりも堤真一さんのイメージだ。6月7日(土)の、大和川レコード×米子匡司@PANTALOONの映像カフェでは、朝田君と米子っちの黒くて腰で巻く黒いタイプの黒いエプロン姿がなかなかさまになっている。米子っちに至っては、普段着ているのなんか見たこともない、ボタンダウンのシャツとか着ている。クレープの種類は、甘夏のマーマレードと梅のジャムとポテトサラダときび糖バター、だったかな。岩淵拓郎さんの映像で甘夏のやつを食べる。うまい。岩淵拓郎さんの映像は、映画「タイタニック」のラストシーンからエンドロールにかけての7〜8分を「食べる前に」みる、というもの。タイトルはうっかり忘れてしまった。。メモしとけばよかった。すくなくとも「恋」の一文字は入っていた。朝田君は、岩淵さんによるこの映像に、「映画館で恋人と映画を見た後はクレープでしょう!」というつながりをみていて、小川しゅん一さんは「エンドロールを見る苦痛の強制のあとのクレープ」というつながりをみていた。ひとによっていろいろで面白い。いろいろ、ということは、各人のなかにそれぞれ別々の像があるということで、この像は岩淵さんによって喚起させられたものでもある、けれどもそれはもう岩淵さんの手に届かない、というか、無関係なところに行ってしまっている。というわけで、各人のなかには、岩淵さん(による意図)であり、岩淵さん(による意図)でない、なにかが生まれたということになるのだろうか。そしてそれを岩淵さんに還元するのでも、自分に還元するのでもない、やりかたについて気にしたい。映像提供者は、ちょっとこぶりのサイズではあるけれど、4種類すべてを食べさせてもらえる、とのことだったけれど、ぐっさんが来たのでいとへんに徒歩で行ったりパンタロンに向かう途中の商店街の入り口付近にある、クレフテという設計事務所+ギャラリーにふらっと立ち寄って高臣大介さんの「ガラスしずく展」を見たり、奥のバースペースのようなところで高臣さんのロックグラスとかワイングラスを見つつクレフテの方や高臣さんと談笑したりしていたら、うっかりあと3種類を食べそびれてしまった。ガラスしずくは(重力による?)ニューッっとしたかたちが生々しくもきれい。透明なガラスだからか。たくさん様々なかたち・大きさのガラスしずくが吊り下がっていたけれど、それぞれに邪魔しあうこともなく。私とぐっさんがガラスしずくを見ていると近所のおじいが入ってきたので、大したもんやな!アートやな!これちょっとおっきいですよ、いいですよね、などとおじいとふたりでガラスしずくを褒め称える。ガラスしずくを吊り下げている透明の釣り糸みたいなのがライトで光っているのがいいよね、とぐっさんとふたりで褒め称える。映像カフェにてクレープをうっかりあと3種類を食べそびれてしまったということは、ヨシムラエリさんと小川しゅん一さんの映像をうっかり見逃してしまった、ということで、とはいえ、ヨシムラさんの映像は誰かが見ていたのをみんなで見たりしたし、小川さんの映像も見逃したと思っていたら見ていた。そのときは小川さんの映像だと思っていなかったというだけで誰かが見ているのをうしろから見ていた。ヨシムラさんの映像は、なんかいろんな映像の断片がチャプターに分かれていて、それを自由に見れるというもので、ごっつええ感じっぽいやつとか昔の特撮ヒーローとか昔のアニメとかどこかの地方の祭りのインタビューとか、そういうもろもろの映像の断片が、リモコンを持ってチャプターを選びながらDVDをみつつクレープを食べる、という行為のもと、繋ぎ合わされる。みんなで爆笑。小川さんの映像は、誰だったかあとで聞いたけど忘れてしまった映画監督の作品の一部分。俳優のはなしの映画で、恋人同士だった俳優と女優がいて、別れてしまったあとに恋人同士役で映画に出るはめになり、撮影のあいだに関係が戻っていく、とかそういうようなものらしい。どこかの公園(映画内映画の撮影場所?)をものすごく遠目に映した映像で、男が女を追っていくのだけれど、その詳細な様子はものすごく遠目なのでよくわからない。それで途中からいきなり音楽が明るいものに変わって、ああ、なんかはなしがついたんだなあ、と分かる、とかそういうようなものらしい。その一連の出来事とクレープにまつわる個々の記憶やらイメージやらが繋ぎ合わされるのだろうか。それにしても面白そうな映画。そういや、21時くらいに父ちゃんから電話があったけれども、眠かったのでよく憶えていない。眠いから面倒臭いなあと思ったのは憶えている。明日、というか今日(このあたりの部分を書いていたのは6月9日の未明)の15時30分伊丹発佐賀行の飛行機で佐賀に帰り、家業(というのかなんなのか)の手伝いをし、20日の17時20分佐賀発伊丹行の飛行機で戻ってくる。いとへんでは、中島佳秀さんの個展「魚と足」がやっていて、中島佳秀さんといえば、大阪でコンピュータ+ギターのライブをやっているらしい、というか「yoshihide nakajima」という名前をエレクトロニカというかそういう界隈のイベント告知でよく見かけていた。今回はじめていまは東京在住であるということ、グラフィックデザイナーでもあるということを知る。展示冒頭の序文(?)やDMのテキストなどによると、平面の作業には慣れ親しんでいるけれども、『初めて人に「絵のようなもの」を見せる。』とのこと。「なぜ」魚(の絵)なのか、ということはDMのテキストなどでも語られているけれど、いとへんのサイトの「魚と足」のページより(http://www.skky.info/itohen/gallery/nakajima.html)

なぜ「絵」を描いてしまったのか。という点。
今まで、音を使った作品を作って来たので、当然サウンドインスタレーションを構想もしたが、 音量と場所との問題、大阪での2週間の継続的な展示期間中のメンテナンスを考えて、まず除外した。


その上で、考えた。  何をするか。
なんとなく「絵のようなもの」にしようと思った。 理由はなかった。


僕自身にとっては、音についても同じだが、「何」を作りたいのかという具体的な制作の対象など、そもそもない。まず、感じにくい自分について考えて、それが何を見て、そして聞いているのかを考える。
そして、絵を描く事を前提に、自分自身が普段何を見ているかを考えた。
そこで思い出された光景は、スーパーの明るくてらされた魚売り場だった。そこで僕は最も恍惚として視覚をもちいている。だからまず、魚を描こうと思った。 同時に、そして、描けるはずもない魚を描いて、なお、思い出したことがあるなら、 それをつけくわえて描こうと思った。


いずれにしても、ほぼはじめて、人に絵を見せる。

「まず、感じにくい自分について考えて、それが何を見て、そして聞いているのかを考える。」「描けるはずもない魚を描いて、なお、思い出したことがあるなら、 それをつけくわえて描こうと思った。 」とあるように、抽象的(にならざるをえない)ことについてひたすら考えて、そこで(誰にも知りえないやりかたで全体と部分の断絶を超えて出てくる)個別的なことをさらに抽象的(にならざるをえない)ことに結び付けて考える、という循環がいいなあと。考えること、感じること、という循環(再帰性?)のための道具としての「作品」または「芸術」。どちらか片方だけだとバランスがわるいし、両方あっても関係が固定してしまっていれば(説明とか補完とか作用とかそういうふうに関係を決めつけてしまっていれば)循環しなくなり動きがなくなる。会場には「魚」を描いた「絵」と「魚を描いたこと」にまつわる長いテキストが展示してあって、とはいっても、「絵」の説明としての「テキスト」ではないし、「テキスト」を説明するための「絵」でもなく、ということは相互に補完しあうものではないし、かといって相互に作用し合う、とかいうとこぼれるものがある、というか簡単に納得してしまうのであぶない。どっちかというと、ほんらい別々のものであるけれど、中島佳秀さんという場所によって、関係付いてしまった、ということなのだろうか。すくなくとも、「作品」と「テキスト」を相互に補完しあうもの、と考えるのは、あぶない。そう考えるためには、ふたつのあいだの断絶を見て見ぬフリをする必要がある。というより、断絶を「断絶」と名付けることで、断絶そのものを「断絶」ということばで埋めてしまうことになる。とかいうのはよく言われることかもしれない。中島さんもこの前みた津田直さんも、それぞれに、ひとりの人間が、「作品」を、または「作品」として、生きた「あいだ」を、見せてくれているのだと思うけれど、映像や音ではなく、それ自体としては固定された時間を含まない、物体や写真や絵やテキストによってなされることは注目に値するような。そこに人間が「作品」として生きた「あいだ」と、制作の「過程(プロセス)」との違いがあるかもしれない。あまりに直接すぎると、説明的にみえて、体験としての浸透圧が低くなる、ということとも関係あるかもしれない。そして、観客は完成されパッケージ化されたなにかを受け取るわけではなく、その都度自分自身で「見方」を作るところから始めないといけないという当たり前といえば当たり前のこと。と、いま、岩淵拓郎さんの「日々嘉綴 総合(ひびかて そうごう)」(http://www.mediapicnic.com/hibikate/)を見てみたら、岩淵さんが映像カフェに提供した映像がアップしてあって、タイトルも判明。「すべてはその恋の味のために」。そうなんですよね、レディメイドなんですよね。というより、私には世の中のなにもかもすべてがレディメイドのようにみえています。もちろん良い意味でです。私が提出したのは、「googleで「クレープ」と検索する。」というタイトルで、コンピュータでいろいろ作業している様子の画面をそのまま動画でキャプチャーできるフリーソフトをみつけたのが先か、「クレープ」で検索している様子をそのまま見せたらどうかしら、と思いついたのが先かはわからないくらい同時なのですが、たぶん、というか当たり前ですが、後者が先です。最初はyoutubeにある、「クレープ」と検索して出てくる映像のなかからどれか選んで流そうとか考えていたのですが、原宿の映像とか、誰か見知らぬ人がクレープを食べている様子の映像とか、いったんDVDにしたもののなんとなく腑に落ちなくて、youtubeで検索したなかからどれかひとつを選ぶんじゃなくて、検索するという行為がまずあってそれに個々の映像がぶらさがっている、というふうにできないかと思って、ソフトを探してみたらうまいことあった、というわけで、でも動画でキャプチャしてみるとなぜかどうしても音声が録音できなくて(録音できるはずなのに)、youtubeの動画なのに音声がないというのも不自然なので、私がgoogleで「クレープ」と検索してネットサーフしている様子をキャプチャすることにしました。こっちのほうが「検索」する、ということが際立つので、結果的にはこれでよかったような気もします。「クレープ」で出てくるページをみていると、「クレープ」にまつわる予想外のもろもろが出てきて、面白かったです。これはただたんにネットサーフした感想ですが、これは「検索」すること、「検索」できるということ、のすごさかもしれないです。あと、自分でネットサーフした映像を自分で見てみると、どちらも自分という場で起きていることにも関わらず、かつての自分の興味とか注意の速度と、いまの自分の興味とか注意の速度がずれていて、なんか気持ち悪くて面白かったです。いや、まだ読んでるのになんで先にいくんだよ!とか。他人の(過去の自分も含む)ネットサーフを、画面のまんまえで、その人が見ていたように(コンピュータディスプレイのキャプチャとして)見ることなんてあまりないと思うので(しかも固定された「映像」なので操作もできませんし)、なんか気持ち悪かったです。なんだかうっかり「ですます」調になっているけれど、誰に語っているかというと、誰でもない誰かとしかいえない。文脈というか文の構成上はなんとなく岩淵さんに向かって語っているようにもみえる。と書くのと書かないのとではなにか変わるだろうか。いま食べているカレーパンのカレーが思いのほか辛くて、19時からの「大和川レコード×米子匡司による音楽を中心とした映像・空間・会話・テキストによるライブインスタレーション」は準備のためか少し押して始まって、会場にはたくさんのお客さんが来ている。パンタロンのギャラリースペースの二階から下の様子をみることもできる。米子君の用意したなにかが直前でトラブルを起こしたけれど、修理しながら進める、とのことで、この時点ではこれも演出のうちなのか?と思ったりもする。パンタロンのギャラリースペース吹き抜けには、朝田君とよなさんのほかにキーボードやアコースティックギターやコンピュータやなんやかやのたくさんの機材やものがあって、もじゃもじゃしている。プロジェクターが壁に信号待ち(青い背景にsignalなんとかとか出ているやつ)の画面を映している。このとき起こったことはひとことでは言い表せなくて、というのは喩えでもなんでもなく、実際にかなりの振れ幅でいろんなことが進行していった、ということで、朝田君が歌ったあとに、よなさんが母親が入院してどうやこうやというはなしをし、パフォーマンス冒頭からアンケート用紙を配り、社会保険制度についてどう思うかを書かせたり、朝田君が歌っているあいだに、よなさんがプロジェクションされたコンピュータの画面を通して、その場でキーボートを打ちながらテキストで(書きことばで)語りかけてきたり、途中でよなさんが誰かに電話をかけていると思いきや、米子ふくみさんという社会保険労務士であり、よなさんのお母さんでもあるひとが現れて、社会保険についてのはなしをしたり質問に答えてくれたり、朝田君とよなさんがそれぞれコントローラーと本体を持って、画面内のスーパーマリオの動きに合わせてジャンプしたり動きながらファミコンをしたり、どう終わろうかみたいなはなしをしているときに、ドイツ人のお客さんからロシア語の社会保険に関する詩を朗読したらよいのでは、という謎の無茶な振りをされたり、していた。これでもまだ事実を列挙していることにはならない。そしてこのような出来事がすべて「パフォーマンス」とか「ライブインスタレーション」とかの形式に則って進行したわけではなく、たんにふたりの興味のあることをそのまま観客に投げかけてみる、という素振りでなされる。なので、「パフォーマンス」とか「ライブインスタレーション」とかの形式のなかでの価値とか意味が付与されているわけではなくて、普段のふたりが気になっていることを、パンタロンとそこに集まった人々という「空間」と2008年6月7日の19時半から21時という「時間」のなかに投げ入れた、という方が分かりやすい。そしてこれが一番重要なのだけれど、普段のふたりの興味のあることをそのままバラバラに放り込むにしろ、なんらかの形式・体裁が必要になるわけで、とはいえ、ここではいわゆる「パフォーマンス」とか「ライブインスタレーション」というような形式・体裁が成り立つための条件が欠けている。つまり、その形式・体裁のなかで行われる様々な物事を繋げる串や軸(ストーリー・物語ともいう)が欠けている。言い換えると、その形式・体裁のなかで行われる様々な物事を大きな視点で繋げて要約できるような、つまり、ああ、こういうことだったんだな、とひとことで納得できるような、串や軸(ストーリー・物語ともいう)が欠けている。見終わってもぜんたいとして(大きな視点で)どういうことだったのか、さっぱり分からない。というより、おそらく、今回のふたりのパフォーマンスに対して、ぜんたいとしてどういうことだったのか、という問いを立てること自体が不適切であるかもしれない。そんなことをしても何の意味もなくて、ばら撒かれた問いの断片を自分自身で組み立て、自分自身の問いをつくっていくのが本来の使い方のような気がする。ふたりは問いを組み立てるための要素としての、問いの断片・モジュールを提供したのではなかろうか。そしてその「問いの断片・モジュールを提供する」ということ自体がひとつの問いでもあるのではなかろうか。もちろん、朝田君と米子君は、それぞれにそれぞれの志向・傾向を持つ個別の人間であるから、完全に中立というか純粋な状態で、問いの断片・モジュールを提供することはできない。必ずその提供の仕方や問いの断片・モジュールの選び方には、個別的な傾向が入ることを避けられない。おそらくこのことをふたりはなんらかのかたちで意識していたとみえて、個別的な傾向のなかに生じてしまう串や軸(ストーリー・物語ともいう)を避けようとした。でも、かといって完全に避けることはできないわけで、どうしたか、いや、どうしたかというよりどうなったかというと、とにかく「素」でやってみようということになったらしい。なんらかのキーワードやコンセプト、もしくはストーリーでパフォーマンスをまとめるのではなく、あえて、大和川レコード(朝田君)という名前の存在と米子匡司という名前の存在において受け止めようとしたと。その結果「素」になったと。しかし「素」といえども、朝田君は大和川レコードという名前の存在を演じているわけだし、よなさんは米子匡司という名前の存在を演じているわけで、そもそも人格の基礎というかニュートラルな状態・中心としての「素」なんて存在しない。その都度の状況や環境への応答としての人格しかない。だからたとえニュートラルな状態としての「素」を志向したからといって、今回の状況・環境への応答としての「素」でしかない。自分がいま置かれている状況・環境に応答する「素」なるものを演じているにすぎない。とはいえ、今回のパフォーマンスに関して、「素」なんてない!とか言いたいわけではなくて(そんなことにあまり意味なんてないし)、「素」は「素」でも、ちょっと違う「素」というか、バラバラで一貫性のない問いの断片・モジュールを、ストーリー・物語化された個人の人格・キャラクターとしての「素」でまとめた、というよりも、名前と肉体を持つ物理的存在としての「素」において受け止めた、という方が正確だと思う。そもそも、初めてふたりを見たひとがこのパフォーマンスをみて、ふたりがどういう人物か分かったか、というとさっぱり分からなかっただろう。ほんらい人間なんてまったくとらえどころのないもので、だから分かりやすくするために肩書やら職業やらなんやかやあるわけで、それを取っ払ってしまえば、どんなバラバラなベクトルの興味でも共存してしまえるような無限の入れ物としての「素」の人間が見えてきませんか?というよりもそう考える方が有意義ではないでしょうかと言いたい。しょうもないことをバラバラにダラダラとやっても、大和川レコードのキャラクター、米子匡司のキャラクターで、なんとなく許される、あれはあれでいいじゃない、と内輪のりでなあなあになる、みたいに考えると、それ以上得るものはなくなるわけで、会場に居合わせた人のなかにもそう感じる向きがあっただろう。そしてそういう感じ方の方が一般的には自然で当たり前のことでもあるだろう。でも私が言いたいのは、個人のキャラクターで許されるとか内輪のりでなあなあになってしまう危険性はどんなものにもあるわけで、しかも今回は前述したように、演者と観客のあいだのクッションとして機能する体裁・形式がない(ように見える・見せている)ために、より剥き出しというか個人のキャラクターを押し出したように見えてしまう、ということも差し引いて考えなければならない、ということである。演者と観客のあいだのクッションとして機能する体裁・形式が私たちにはどうしても必要である、なければ捻り出すのみである、ということの方が私には気になる(そもそも、ふたりがパフォーマンス中に発した「素」というキーワードに影響されすぎというか、そこからの解釈が自然で合理的にみえるのか、簡単なところに流れすぎのように思える)。高校のときの修学旅行は東京で、その目玉がディズニーランドで、といっても、おしゃれに気をつかう、というか、おしゃれが大好きな人たちはディズニーランドを抜け出し、原宿とか裏原宿(ってどこ?)とかに行ったのだろう。私たちはなんとかマウンテンとか、4つくらいあるマウンテンと名のついたジェットコースターをずっとはしごし続けていて、雨だったからそんなに混んでいなかった。たしか、スペースマウンテンだかなんだかそういう真っ暗なジェットコースターに並んでいるときだったらしいが、友達のひとりが韓国の人に話し掛けられ、なにか尋ねられたらしく、韓国語(ひょっとしたら英語で話し掛けられていたかもしれない)の分からない友達は、とりあえず知っている韓国のことばということで、ソンドンヨル、と答えたらしい。「ソンドンヨルってだれですか? Yahoo!知恵袋」より

宣銅烈ソン・ドンヨル)】
1963年1月10日生まれ。韓国・光州広域市出身。高麗大学校卒。
韓国、日本で活躍した元プロ野球選手で、150km/hを超える速球と、2種類の高速スライダー、抜群の制球力で
圧倒的な成績を収め、韓国史上最高の投手と言われる。
現在は、韓国プロ野球三星ライオンズ監督。北京五輪・野球韓国代表チームの首席兼投手コーチ。

韓国:367試合、146勝 40敗 132セーブ、1698奪三振防御率1.20
日本:162試合、10勝 4敗 98セーブ、228奪三振防御率2.70