■B
いつのまにかカバーバンドから
演奏のはなしになって
目的と手段のはなしになっていますが
こうなるのはなぜでしょうね。
どこかで私たちは
演奏は音楽の手段であって目的ではないと思っているようです。
カバーバンドの演奏には音楽はないと思っているようです。


■A
果たしてそうでしょうか。
演奏によって音楽に至るというような直線的思考を前提としているから
演奏を手段として音楽が目的である、演奏と音楽は別物である
というようなことになるのではないでしょうか。
何らかの具体的な行為(ここでは演奏)によってしか音楽は顕われないとすると
行為(演奏)によって音楽に至るというよりも行為(演奏)はすでに音楽である
という風に考えた方がすっきりするのかもしれません。


■B
単純に考えてみると
カバーバンドは演奏をしているだけで曲は作っていないから
カバーバンドの演奏には音楽はないと思っているわけですよね。
しかし何故カバーをするかというとひとつには
創造の喜びとは別に行為する喜びもあるからです。
私たちはいままで創造を重視し行為を軽視してきました。
例えばアイデアだけ出して実作業は外注にさせるアートディレクターのように。
そこではもちろん創造と行為のフィードバックは存在しますが
アートディレクターと外注というように
物理的に離れていてノイズが多くそれだけに
思考の現実化/物質化をするのが行為で
行為は思考に従わなければいけない
というようなトップダウン方式になってしまうのも現実です。
ノイズを減らし思考と行為を一致させるのが一番よい方法なのでしょうか。
スピードと効率、なにより最適化された答えを求められるところであれば
それが一番良い方法なのでしょうが
私たちのいるところはそういうところなのでしょうか。
なにより私たちには死ぬまで(いつ死ぬかは分かりませんが)時間があります。
行為のことば行為のノイズにもっと積極的に耳を傾け
行為のことば行為のノイズがもっと積極的に生きる方法を考えませんか。
行為のことば行為のノイズが現前性へのきっかけになるような。


■C
創造から行為だけ切り離されたものがカバーバンドだとすると
またそれゆえそこには創造と行為のフィードバックが存在し得ないとすると
やはり行為の喜びに創造はあるのか疑問に思えてしまいます。
行為の喜びに行為のことば行為のノイズを聞く耳などなく
どこまでもただ享楽を消費していくだけのように思えます。
それが創造を重視し行為を軽視することの始まりなのではないでしょうか。
創造という概念はそもそも行為を含んでいるように思えます。
それと同時に創造とは離れた(ように見える)行為の喜びという概念には
なにかしら未知の部分があるようにも思えます。


■B
ところで、創造は労働だと思いますか。
というと少し乱暴ですので補足しますと
芸術としての創造ははたして価値を生産し価値と交換する
というような意味合いの(またそのようなことを前提とした)
労働に当たるものなのでしょうか。
今日では労働とまでは名指さなくても暗黙にそのような意味合いで
みんなが考えているように思いますがどうでしょうか。


■C
現実に労働とは言わない(ただの気分的なものですが)までも
実際はほとんど労働だと言えるのではないでしょうか。
狭義の芸術に限らずなにかをつくることは他者からのなんらかの反応
(感想であったり貨幣としてであったり)を求めるものです。
そのようになんらかの反応、なんらかの対価の支払いを
求めてしまうようになっている以上
反応を前提としてなにかをつくる以上
労働とは言わないまでも労働的ではあるでしょうね。


■A
いまよくよく周りを見渡してみると
貨幣と名声の交換の場に入ることが生産者として一人前の証であり
そこでつくったものの価値を厳しく問われることが
つくったものの価値に直結すると言われています。
そのように作り手と受け手という関係が
生産者と消費者という貨幣交換の場として成立する限り
そこに諸々の権利、義務、倫理が発生するのは当然でしょう。
そこでは生産者は消費者に商品の価値を説明する義務があります。
消費者はもちろん気に入らなければ交換を拒否することができますし
交換した後でもその商品が気に入らなければ返金を求めることができますし
様々な方法によって生産者を監視しコントロールすることができます。
消費者は生産者へ提供する価値を貨幣に限ってしまうことによって
消費者としての権利だけを主張することができます。
貨幣交換の世界で消費者は支払うべき貨幣さえあれば
あらゆる次元において常に生産者の上の立場に立つことができます。


■B
そのような貨幣と名声の交換の場で芸術というあまりに曖昧なものが
発展する余地はあるのかどうか分からなくなってしまいますね。
どう見ても貨幣と名声の交換というシステムだけではカバーできない部分が
あるように思えてなりません。
もちろん貨幣が絡めば厳しく価値は問われるでしょうが
やはり貨幣交換の価値に沿って問われる以上
基準が極度に単純化してしまうのは避けられず
その問われ方にかたよりが生じてしまうのは仕方ないでしょうね。
貨幣交換の場においては
好みに合わない絵をお金を払ってまで見たくないという気持ちは
好みに合わないラーメンをお金を払ってまで食べたくないという気持ちと同じです。
絵画でもラーメンでもその美味しさは様々であるはずなのですが
それぞれの様々な偏見(偏った見方)を貨幣によって相殺してしまう、
自分の価値観を自ら絶対なものとして認めるという矛盾を正当化してしまう
ということが貨幣交換の弊害になってしまっているように思えます。
芸術のやりとりにおける貨幣交換のシステムは
作り手受け手双方の謙虚さを失ってしまう可能性があるのではないでしょうか。
差異の価値の交換は貨幣によってなされるのが一番適切なのでしょうか。
また逆に貨幣の交換では差異の価値しか問題にされなくなるのではないでしょうか。
もちろん価値の保存や交換に便利な貨幣に依存しきっているいまの時代
貨幣交換に頼らずになにかをすること自体が難しいのも事実ですね。


■C
とはいっても
コトとしての体験を買うことと
モノとしての作品を買うことは
本質的に全く異なるものだとも思えます。
所有できるかそうでないかは貨幣や名声などの価値の交換における
作り手受け手の関係に極度の緊張をもたらします。
もちろん複製されたモノによる仲介者を介して行われる交換には
そんなことはありませんが。


■B
コトはコトのままではモノにはなり得ないし
モノはモノのままではコトにはなり得ないという
コトの論理とモノの論理の違い、または
複製されないモノの論理と複製されるモノの論理の違いなんかを
考えてみるのも楽しいかもしれません。