ひとつの30分カセットテープとふたつのポラロイドによる
「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」への
よくある質問とその答えの一例


Q:なぜ野外で音を録るのですか?
A:自分で音を出さなくてもすでに音がたくさんあるからです。
私にとっての野外は自分を含みかつ自分以外としての他者です。
コントロールはできないけれど互いに影響を及ぼしてしまったりします。
主観と客観、自己と他者、フィクションとノンフィクションの関係に興味があります。
また野外で録音することは音楽はどこで生まれるかという問題にも触れてしまい
そこから芋づる式に、作者について、音に含まれる意味について
ひとつの形式としての野外録音(フィールドレコーディング)についてなど
いろいろと問題が浮かび上がってきます。


Q:なぜテープレコーダーで録るのですか?
A:まず第一に家にあったからです。多分父親のものです。
私は録音の技術には全く興味がありません。
なのでちょうど持っているしテープレコーダーで十分だと思ったわけです。
かといってカセットの音の質感が特に好きなわけでもありません。
また、音がカセットというモノに定着してデータとして残らないからです。
データとして残すということはその時点で複製を前提としてしまいますが
カセットというメディアで記録するということは
複製はもちろん可能ですが必ずしも複製を前提とはしません。
つまりデータで録音してCDRに焼くとかそういう作業が面倒なだけです。
データにしてずっと残すほどありがたいものだとも思えません。
技術的な部分からいわゆる「音楽」になってしまうのを避ける意味も
あるかもしれないとあとから思いました。
とはいっても一応最低限の配慮ということで
録音中は風の音ばかりにならないように
マイク部分を風の接触音から守るため
薄手のタオルでテープレコーダーを包んでいます。


Q:なぜコンピュータの音を野外の音と一緒に録るのですか?
A:元々は野外でコンピュータの演奏をすることで
何か分かることがあるかもしれないという目的だったのですが
いつのまにか全く変わってしまいました。
いまはコンピュータについているマイクとスピーカーを
内部で直結することで起きるピーッという
ハウリングの音だけその場で出しています。
コンピュータを置いたらあとは触りません。
風が吹いていたらその音を拾って少し変化したりもします。
いままでギターやコンピュータの自作ソフトやスピーカーの接触不良など
いろいろと演奏しようとしてきましたが演奏に自分の求めるものがない
というよりもいわゆる演奏家としてはまったくダメだと思いますので
というよりも演奏っていったい何なのかがさっぱり分かりませんので
それなら下手に演奏しない方がいいと思ったわけです。
とはいってもコンピュータを置くということが
演奏であるともいえますし風などで音も変化しています。
これはあとから思ったことですが
「作者」として「録ってしまう」ことを
避ける意味もあるように思います。
自分の分身としてコンピュータを野外に置きその状況を録音することで
私は録音するものであり録音されるものでもあるわけです。
「演奏者」としての私が作者かというと微妙ですし
「録音者」としての私が作者かというとそれも微妙になってきます。
録音中、私は本を読んでいるか眠ってしまっているか何か食べているか
どこか近くに散歩に行ってしまうかしています。
私の代わりにコンピュータに音を出してもらい
私の代わりにテープレコーダーに音を聴いてもらっているあいだ
私は「野外」のひとつとして振る舞っています。
録音によってその状況を知覚し記録する
ただひとりの超越者としての「作者」の立場は
この一連の行為における私にはそぐわないように思います。


Q:なぜコンピュータのハウリング音なのですか?
A:私が考える限りコンピュータで出せる一番貧しい音だからです。
コンピュータに与える指示は内蔵マイクの入力を内蔵スピーカーに送れ
というただそれだけでコンピュータ内部で音を生成/ 加工したりなどしておらず
どこにでもあるひとつの現象としてのハウリングを起こしているだけです。
録音中私が何もしていないのにその身代わりのコンピュータが
何らかの主体的な行為による価値を発していてはまずいということです。


Q:なぜ録音する時にポラロイドも撮るのですか?
A:コンピュータを置いているということは音だけでは分かりにくいので
コンピュータの置かれた状況そのものを視覚として記録するためです。
そこにいる私自身もコンピュータ、テープレコーダーと一緒に写りたいのですが
私の持っているチェキにはそういうタイマーのようなものはついていませんし
誰かに頼んで撮ってもらうとまた意味が違ってきてしまいます。
野外で録音しながら考えていることを
方法とメディアを変えて考えたいという気持ちもあります。


Q:なぜポラロイドで撮るのですか?
A:テープレコーダーと同じくデータとして残らないからです。
データとして残すということはその時点で複製を前提としてしまいますが
ポラロイドというメディアで記録するということは
複製はもちろん可能ですが必ずしも複製を前提とはしません。
つまりデジカメで撮ってコンピュータに取り込むとかそういう作業が面倒なだけです。
データにしてずっと残すほどありがたいものだとも思えません。


Q:なぜ30分テープなのですか?
A:テープに入っている音を
「ある時間の長さを持つ音の流れ」として聴く時に
一般的な音楽の感覚を参考にして考えてみると
片面5分では短いし片面20分、30分では少し長いと思い
片面15分がふたつで両面30分にしています。
A面、B面それぞれ異なった場所での録音が入っていて
ポラロイドもそれぞれ1枚づつ撮影しています。
ちなみに片面30分の60分テープで録音する時もありますが
こちらは複製を前提として、面倒ですがパソコンに取り込んで
MP3でネット配信もしくはCDRに音を定着させる場合です。
メディア自体になんらかの区切りがない限りは
ひとつのメディアにひとつの録音が理想的だと思いますので
MP3、CDRの場合は1トラック30分の録音を収録しています。
カセットを使う場合は片面15分で1回の録音なのですが
その日の気分によって1回の録音で15分では少し短いと思うこともあるので
MP3、CDR用として30分の録音をするというように使い分けています。
内容に差はありませんがその分形式の違いが大きな違いになってきます。
というよりも「その日の気分の違い」が何なのかが大きな違いであり問題でもあります。
この場合は複製を前提としていますので面倒ですが
ポラロイドではなくデジタルカメラを使用します。
また、なぜテープだけでなくMP3、CDRを用いるかというと
まずこれらはいまの時代カセットテープよりも普及していて
聴く側の立場になった時とっつきやすいからです。
カセットは無記名で無料ですがCDRは記名して有料でライブで販売するのみです。
CDRにはプロモーションとしての「とっつきやすさ」以外は
いまのところ望んでいません。
とはいっても何か見つけるかもしれませんのであくまでもいまのところです。
MP3の場合はもうひとつ、圧縮による劣化を前提としたメディアだからでもあります。
音楽のメディアとしてMP3はその利便性を除けば
その音質からあまり良くは思われていません。
録音された音/音楽はその音質の良し悪しによって
その内容を忠実に再現できるかどうか決まると信じられています。
まずオリジナルとしての録音[される]音/音楽が実在としてあって
複製としての録音[された]音/音楽はその影、幻だと考えられています。
ですが、果たしてそうでしょうか。
録音[された]後になれば
複製としての録音[された]音/音楽しか実在していなくて
オリジナルとしての録音[される]音/音楽はその影、幻に
なってしまわないでしょうか。
その時、音質と音/音楽の実在との関係はどのように変化しているのでしょうか。
MP3は音質という点から音/音楽の実在を考えるきっかけになってくれます。


Q:録音する場所はどのように選んでいるのですか?
A:録音する場所はどこでもいいのですがどこでもいいではどこも選べませんので
やはり自然に基準が生まれるのが不思議で面白いです。
街中ではその場所に座っていても不自然ではないところ、
ベンチや座れるスペースのあるところがどうしても多くなります。
晴れた日に海や川に行くと気分がいいのでそういうところも多くなります。
また川や公園などに行くと楽器を練習している人がいて
そっとそういう人の近くに行って録音することもあります。
やはりどこでもいいと思いつつもなにか特徴のある音が
鳴っているところが気になるようです。
駅や電車の中、バスの中で録音したこともありますが
一見不自然なところでもやってみると意外に気にならない(されない)もので
不自然かどうかというよりもやるかやらないかの度胸次第のような気もします。
冬は寒いので自然と外を出歩くことは少なくなります。


Q:なぜそのようにして録音したカセットをダビングもせずポラロイドと一緒に
無記名で無料配布するのですか?
A:まず私の家にどんどんカセットとポラロイドが溜まってしまうのが嫌だからです。
いまは録音したカセットを家で聴くことはまったくありません。
なので捨てるよりは誰か他の人に貰ってもらう方がいいと思いました。
確かに私がその場所に行って私が録音を意図したものではあるのですが
私に権利があると主張するのも気が引けますし
だからといって責任を放棄するつもりはありませんが
「名指す」ことでなにかそれらしきものになってしまうこと
解釈という感じ考える作業が作者だけを対象にしてしまうこと
を回避するためにいまのところは無記名にしています。
無記名であることで「作者」に気兼ねなく自由に私が考える以上に
いろいろと考えてもらえることを期待しています。
「名指し」についてはまだ考えなければなりません。
また、当初は無料配布するという考えは一切なかったのですが
単純に無料であればいろんなところに置けるということと
お金と交換してもあまり面白くないと思ったからです。
なのでカセットを貰ってくれる人は
いつどこで何に対してかは分かりませんが
対価という意味での何かを支払うことになると思います。
私への対価がもし支払われているとすれば
カセットに入っている音とポラロイドに写っている風景が
誰かの時間と空間として新たに体験されるのを想像して
楽しんでいることでしょうか。